シャンチー(象棋)トークリレーの8人目「崔航さん」へのインタビュー

トークリレー

シャンチー(象棋)トークリレーの8人目は崔航さんです!

○このコーナーの説明

現在までのバトン受け渡し状況はこちら↓

鄭一泓さん→汪洋さん→趙鑫鑫さん→曹岩磊さん→党斐さん→鄭惟桐さん→呉優さん→崔航さん(今ここ)


今回は呉優さんから崔航さんにバトンがまわりました!呉優さんは北京大学出身の方で、今回は同じ北京にある名門大学、清華大学のシャンチークラブに所属していた崔航さんにインタビューをさせて頂きました! 崔航さん は仕事の関係でインドネシアに長期滞在していたことがあり、インドネシア代表として世界選手権に出場された経験もあります!今回は 崔航さん のシャンチーとの出会いから現在までの色々なお話しを伺いましたので、皆さん、是非最後までお楽しみ下さい!(*´▽`*)


崔航さん

シャンチーとの出会い~趙慶閣さんのクラス~

Q、シャンチーを始めたきっかけと子供の頃のシャンチーの活動についてお聞かせ下さい。

A、私は遼寧省瀋陽の人です。1983年に生まれで、大体5歳ぐらいの時にシャンチーの勉強をはじめました。私の父はシャンチーの愛好者で、はじめは父が私に基本的なコマの動かし方をお教えてくれました。その後父は、私がシャンチーに興味を持っていると感じていたことや、私が6歳の学前班(小学校に入る前の勉強の準備をするクラス)の頃、小学生組のシャンチーの大会に参加し6位になったことなどから、私に何人かの有名な先生を探しシャンチーの勉強を続けさせようとしました。そして、その頃ちょうど趙慶閣先生(国家大師)のシャンチークラスが開設されたので、私はそのクラスにエントリーしました。当時は週休一日制で、毎週日曜日に父はバイクで40分かけて授業に連れて行ってくれました。

Q、趙慶閣先生の授業の様子についてお聞かせ下さい。

A、 当時の授業は瀋陽にある人民解放記念碑の近くのテニス場の地下にある部屋で行われており、そこには多くの子供たちが参加していました。地下室はとても長い空間で大体50メートルほどの場所でした。左右どちら側にも机が並べられており、棚には沢山のシャンチーのコマが置かれていました。私たちは毎回シャンチーを指す時、棚の中にある大きな箱の中に詰めこまれた大小様々なシャンチーのコマの中から同じ大きさの1セット分のシャンチーのコマを探します。そしてその作業が終わるとシャンチーの対局が始まりました。この授業のためのコマの準備は面白いものでした。

当時の趙先生の授業方針は子供同士での対局が主要なものでした。子供同士で対局させ、勝つと次はより強い人と対局させます。そして趙先生が空くと趙先生も対局をして下さいました。生徒が多いため、復盤は毎局全てをしてくれるわけではありませんでした。先生一人にはそんなに多くの時間がないため、よく指せた内容のものだけを復盤して下さいました。

趙先生が私と対局指導をして下さっていた時の面白い出来事があります。指しているうちに私の局面が悪くなり、「この局面はもうだめです」と言って諦めることがよくありました。そんな時、先生は「じゃあここから紅黒をかえてやってみよう」と言い指し続けました。そして数手進むと私はまた「この局面はもうだめだ」と言うのでした。一局の中で何度も紅黒を入れ替えて指したことを覚えています。

大体2、3年勉強を続けたころ、私も一定の棋力を身に付けることが出来、瀋陽市の小学生組で優勝することが出来ました。私は趙先生の地下室でのシャンチーのクラスは5-6年通いました。その後94年以降は少年宮や趙先生の家でシャンチーを教わりました。また2002年に清華大学の冬合宿に参加する前、趙先生の家で臨時練習をし、その時に当時まだ10歳だった陳卓さんと会ったことがあります。彼はその後国家大師になりましたが、26歳の頃に若くして亡くなりました。

○陳卓さんがお亡くなりになった時の記事の中に、陳さんの名局が紹介されています。

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その他で有名になったシャンチー選手の中で私にとって印象深いのは金松シャンチー大師です。当時16-17歳の少年だった金松さんは何局も私と対局をして下さいました。私の印象の中では2局引き分けになったことがあります。金波大師も趙先生の学生の一人です。また世界チャンピョンになった賈丹さんも趙先生の学生でした。そして趙先生のところでは卜鳳波さんとも一度会ったことがあります。卜鳳波さんは趙先生と話をしていて、私は少し離れたところからそれを見ていました。その時は崇拝するような特別な感覚を持ったことを覚えています。ただ卜鳳波さんは趙先生の学生ではなく、孟立国大師の学生です。また陳啓明大師が来て学生に教えていたこともありますがそんなに深く印象には残っていません。尚威さん、孟立国さん、柴如林さん、韓冰さん、宋国強さん、韓福德さんと言った遼寧省の有名な棋士たちもたまに来ました。

Q、 大盤を用いた講義はありましたか?またどのような方がクラスに参加していたのかお聞かせ下さい。

A、趙先生のシャンチークラスでは、印象に残っている中では大盤での統一的な授業はありませんでした。その授業に参加していた子どもはすでに一定の基礎を持っており、省や市の試合で入賞したことのある子どもばかりでした。そのため、基本的なことを再度教えることはありませんでした。

授業は毎週日曜日にあり、当時は毎回7-8人の人が参加していました。そこでは1対1の対局を行っていました。また家族が練習に付き合っているような人もいました。このクラスに参加している生徒の年齢は6、7歳から20歳ぐらいの様々な年齢の生徒がいました。

金松大師のような方もよくシャンチーを指しに来ていました。当時の金松さんの年齢はおそらく16-17歳でした。その他にも瀋陽市の名手である董志新さんや、馮宗元さん、黄成俊さんもよくそこに来ていました。 あの地下室での授業は私のシャンチーの最初の記憶でもあり、最も美しい思い出です。

学生時代(その1)

Q、小さい頃のシャンチーの勉強や大会への参加経験についてお聞かせ下さい。

A、私は瀋陽市の小学生組の大会で1991年7月にはじめて優勝しました。当時私は8歳でした。小学一年生の夏休み中で、二年生の新学期が始まる前のことでした。これ以降は学校の授業に参加する時間が多くなり、趙先生の元へは行かなくなりました。当時の主要なシャンチーの勉強方法は家で本の棋譜を並べることでした。そして毎年区や市の中で開催されるジュニアの試合に出ていました。市内で行われる同年代の組での大会ではだいたい優勝していました。ただ、たまに間違えてしまうこともありました。また試合では自分の年齢よりも高学年の組みに参加することがありました。私より2~5歳ほど年上の選手と指すことは私にとって大変なことでした。

私は小中学生のころ省級の大会で2、3回優勝したことがあります。市級の大会でも沢山優勝したことがありますが、何回優勝したことがあるかはあまり覚えていません(省の下に市があります)。最後に参加した市内の大会は2000年、高校一年生になった時で、その時最後の優勝をしました。

ただ残念なことに、全国少年大会に参加したことは一度もありません。ここには多くの理由があります。1997年に私は全国少年大会に参加する予定でした。その時は中学1年の夏休みで、これから中学二年が始まろうとしている時でした。そのため私は勉強を準備するための集中クラスを受講していました。そのため家族は勉強に影響があってはいけないとして、私を全国少年大会に出場させませんでした。家族は当時勉強の成績を上げることを一番に考えており、シャンチーは趣味の中で頑張ればいいと考えていました。

記憶に残っている中では2回準全国大会(参加している選手のレベルが全国大会に出ている選手に近い大会)に出場したことがあります。1回目は1995年の棋友杯大賞賽の少年組、2回目は1997年の好利来杯の少年組です。ただ試合成績は残念なことに2位と3位でした。

学生時代(その2)

Q、清華大学への入学と大学時代のシャンチーのお話しをお聞かせ下さい。

A、私は大学入試の際にシャンチーの棋力の力を借りました。高校3年の頃、清華大学のシャンチーの冬キャンプで2位になりました。私はその成績と文化過程の試験の成績から大学入試で50点プラスされる好条件を獲得しました。そして入学試験も通常通りの力を発揮することが出来ました。2002年の清華大学の遼寧省の合格ラインは656点でしたが、私は入学試験で654点をとり(これに50点プラスされ)、順調に清華大学へ入学しました。

清華大学へ入学後、授業の負担はとても重みがありましたが、比較的動きやすく自由でした。そのためシャンチーの活動にも復帰しはじめました。私は入学試験の際にシャンチーの優待を受けたので、シャンチーのチームには自然に入りました。チームに入ってからは毎週訓練があり、校内チームのメンバー同士で内部の大会などを行っていました。その後私が大学二年の時、チームの隊長になりました。隊長にはチーム内の様々な試合を組織する責任がありました。

また学校には、シャンチーチームと別にシャンチー協会もありました。シャンチー協会は校内のシャンチー愛好者を集めて週末に活動を開催していました。この活動は新しく学期が始まる時は多くの人がいますが、少しずつ人が減って行きます。私は協会のことには多くかかわっておらず、協会内の活動もあまりしていませんでした。そのため、私は協会の管理者でしたが、自分のことを適任者だと思っていませんでした。

Q、シャンチーチームの活動や訓練方法についてお聞かせ下さい。

A、当時のチームの中ではとくに体系的な訓練や専門的な訓練はありませんでした。チームには20人ほどが在籍しており、毎週末に教室を探してチーム内で試合をしていました。実際のところ一つの学期中に出来る練習はそんなに多くありませんでした。本来4か月間あれば16週です。しかし7-8回程度出来れば良い方でした。なぜなら、間の週末には校内や他校との試合が多くあったためです。例えば清華大学内の個人戦と団体戦「馬約翰杯」、北京大学との対抗賽である「京華杯」、北京市高校団体戦の「中青政杯」等です。

Q、学生時代のシャンチーの大会以外の活動や交流などがあれば教えて下さい。

A、私は学校のインターネット掲示板のシャンチーのカテゴリーの中で普段の空き時間に弈天(インターネット対局)で指した棋譜を紹介していました。その掲示板内ではみんなで討論したり交流したりしていました。またインターネット掲示板ではシャンチーの様々なニュースが討論されていました。シャンチー大師の素晴らしい昔話など、内容は様々でとても面白い掲示板でした。

Q、その他の在学中のシャンチー関連の活動についてもお聞かせ下さい。

A、1、校内の個人戦と団体戦:

これは「馬約翰杯」と呼ばれる試合で、略して「馬杯」と呼ばれていました。団体戦は毎年ありますが、個人選手権は色々な理由から開催されない年もありました。私は個人戦には3回参加して2回優勝し、1度は2位でした。団体戦は記憶に残っている限りでは二度優勝し、二度2位になりました。

団体戦について:

私がファクトリーオートメーション専門の本科生だったころ、シャンチーの強い人はあまり多くありませんでした。そのため2005年は優勝の可能性が非常に高くありました。最初の5ラウンドは全勝し、6ラウンドは重要な一局でしたがコンピューターサイエンス専攻チームに負けてしまいました。そのため残念なことに準優勝でした。大学院は3年間ソフトウェア工学を専攻していました。この専攻はシャンチーの実力があり、2度優勝し、1度準優勝しました。

2、清華北大マインドスポーツ対抗賽:

これは毎年4月に行われる大会です。シャンチー、囲碁、チェス、ブリッジなどの種目があり、教員、大学院生、本科生等の組があります。私は2003-2009年まで7年連続で参加しました。総戦績は8勝3和3負でした。毎回一人の相手と紅黒を入れ替えて2局指します。午前午後一局ずつです。自分が満足している戦績は2003年の金海英特級大師との1勝1和と2005年の才溢大師との1勝1負です。

3、北京市高校級別団体賽:

この大会にはじめて出たのは2002年で、中国農大で行われた団体戦の一つでした。当時私は大学一年生で、はじめての参加でした。最終的には清華大学は北京大学を圧勝しましたが、私は全国少年チャンピョンの呉優さんに負けました。実力不足もありましたが心理的な圧力も比較的大きく影響しました。

その後2006年から中青政が北京市高校団体賽を続けて開催しました。私たちははじめの2006年と2007年に優勝し、その後は北京大学が優勝していました。なぜなら北京大学には王天一さんが入学し、その後任剛さん、楊晛さんが続けて入学しました。それにより北京大学は数年間とても強いチームになりました。2007年以降に清華大学と北京大学のシャンチーの実力には線が引かれました。2007年以前、清華大学は比較的優位でしたが、2007年以降清華大学はずっと北京大学に負けていました。その状態は王天一さんや才溢さん、唐丹さん、任剛さんが卒業するまでずっと続きました。

2007年は古青檀杯の北京市高校団体賽もありました。この大会では私たち清華大学は力を発揮し呉優さんや、才溢さん、胡濱さんの北京チームに勝ちました。私も呉優さんに勝ち、5年前の雪辱を果たしました。

4、西南聯大杯

これは2004年から始まった大会で、清華大学、北京大学、南開大学の3校が参加する団体戦です。この大会は何年も続けて開催されており、少なくとも2011年まではこの大会がありました。

5、その他

上記にあげた正式な試合以外にも、いくつかの大会がありました。

2002-2004年には清華北大擂台賽が開催され、3対3の対局をしました。しかし、色々な理由から試合は最後まで指し終わりませんでした。

また、私はその他で北京市と遼寧省の大会にいくつか参加していました。2004、2008、2009年は遼寧省の個人選手権に参加しました。その中でも2009年は第3位になり、一番高い成績を収めることが出来ました。また北京市での大小様々な試合にも参加しており、基本的にはどれもそれなりに良い成績をとることが出来ていました。ただどの大会でも優勝することは出来ませんでした。北京市の大会ではよく王天一さんや唐丹さん、蒋川さん、任剛さんを見かけました。2008年の北京市職工賽は有名な選手の参加が多く、その4人も全員参加していました。私も参加し6位になりました。この大会でとくに嬉しかったことは黒番で王天一さんに引き分けが出来たことです。

Q、王天一さんが北京大学に入学した時のまわりの反応をお聞かせ下さい。

A、当時はまだそんなに大きな反応はありませんでした。当時、王さんは普通のシャンチーの特待生として北京大学に入学しました。その時はまだ全国チャンピョンでも世界チャンピョンでもありませんでした。王さんが北京大学に入学したのは2007年でした。ただ2003年のころに王さんはすでに清華大学に来て私たちの学校のシャンチーチームとの交流をしていました。そして、その頃にはすでに彼はチームの全員に圧勝出来る力がありました。当時、私たちは彼の将来にとても大きな可能性があると感じていました。

王さんは2009年に甲級リーグに参加した一年をきっかけに、国内のアマチュア大会で優勝するようになって行きました。2010年ははじめて中国個人選手権に参加し、優勝の可能性もありましたが残念なことに最終結果は4位でした。シャンチー界では、その頃から王さんは注目されるようになりました。その後2012年の全国選手権で優勝し、2013年に世界チャンピョンになり、その後レイティングもトップになりました。とても速い勢いで王さんはトップに登りつめましたが、私個人の感覚としては何の不思議もありませんでした。

(ちなみに鄭惟桐さんが今年から清華大学に入学しましたが、卒業生としてとても嬉しいとのことです!これからの数年間かは清華大学のシャンチーチームは強くなりそうですね!!^^)

思い出に残った大会

Q、これまでに参加した大会で印象に残っている大会やその時の出来事などについてお聞かせ下さい。

A、1、 1991年8月の瀋陽市大会で、私は少年チャンピョンになることが出来ました。当時私は小学1年生で5、6年生の選手と何局かあたりましたが、彼らに勝ち、最終的に優勝を手にしました。瀋陽市の棋届元老である董志新さんは、ずっと私を気に入ってくれていました。私が優勝した時もとても喜んで下さいました。そしてわざわざ特別に記事を書いて下さり、瀋陽の新聞で紹介されました。その時の記事のタイトルは「8歳の子供がシャンチーで優勝!」と言うものでした。私の父もとても感動し、当時その新聞を10部買いました。

○当時の記事

2、 1995年遼寧省丹東で参加した棋友杯の全国大奨賽の少年組での出来事です。この試合の主要な部分は成年組で少年組はおまけで付けられたような大会でした。試合は全部で13ラウンドあり、成年組は200人以上が参加していたと思います。多くの対局部屋があり、規模の大きい大会でした。私は少年組の試合の対局が終わると成年組を見に行きました。これは私にとってはじめてレベルの高い選手の試合を観戦することが出来た機会で、私はとても幸せでした。また視野が大きく広がった大会でした。この試合には趙慶閣さんや金波さん、金松さん、黄士清さん、王暁華さん、宇兵さん、陳呂明さん、潘振波さんと言った国家大師が参加していました。試合の価値は説明するまでもありません。そして最後には金波さんが優勝し、賞金8000元を獲得しました。

3、 2002年、大学1年の頃のことです。入学して2か月の頃に行われた清華大学馬杯個人選手権で優勝したことは今でも忘れられない思い出の一つです。運の要素も中にはありました。とくに最終局は運が良かったです。何と言ってもこの大会は全学校で行われた大会で、私が以前参加していた省や市の中の少年シャンチー大会とは優勝の意味が異なりました。そのため優勝することが出来てとても興奮しました。

2006年の馬杯の写真(02年と06年の馬杯で優勝されました)

4、 2004年にはじめて参加した遼寧省の個人選手権です。この大会には多くの方が参加し、後々その中から多くの国家大師が生まれました。例えば趙金成さん、曹岩磊さん、李冠男さん、陳卓さん等です。この大会で私は4勝7和で敗局はなく、4位に入賞することが出来ました。

5、 2008年の北京市職工賽です。北京市のトッププレーヤーが多く参加した大会で、私は6位に入賞することが出来ました。この大会では自分の持っている以上のレベルを発揮することが出来ました。また後手で王天一さんと優勢の引き分けをすることが出来ました。この大会前の2003年の時、張強さんがまだ子供だった王天一さんや任剛さんらの選手を清華大学のシャンチーチームとの交流で連れてきました。その時は引き分けも難しく、とくに快速戦ではどのように指しても私は王さんの相手になるレベルではありませんでした。

6、 2013年にインドネシア(ジャカルタ)で参加したインドネシアの全国個人戦です。目標は優勝することで、試合経過も勢いよく進むことが出来、予選賽は6勝1和の1位で準決勝に進むことが出来ました。しかし残念なことに準決勝では体力が切れてしまいました。大優勢の局面で大きなミスをしてしまい、林進強さんに負けてしまいました。最終結果はとても残念なことに3位でした。ただ3位に入賞したことでインドネシアの国家大師の称号を得ることが出来ました。

7、 2014年にドイツのベルリンで参加した世界シャンチーオープンです。個人ではとてもよく力を発揮することが出来、5勝2和の戦績でした。引き分けした相手は中国の特級大師の鄭惟桐さんとベトナムの頼理兄さんでした。とくに頼理兄さんとの対局は必勝残局でしたが勝つことが出来ませんでした。この大会で私は4位で国際棋聯大師のタイトルを逃してしまいました。残念だったことは頼理兄さんが3位だったことです。もしも頼理兄さんに勝てていれば私は2位に入賞することが出来ました。

●頼理兄さんとの棋譜

隈忽錦 含砂 才 埆掴錦 正尖儘 - 2014定遍曙弊順�薙巷蝕琵 - 及05態 - A61 狛幸土斤序恣瀧 - 叫銅�薙薙惇花垂

●鄭惟桐さんとの棋譜

嶄忽錦 孱立幽 才 隈忽錦 含砂 - 2014定遍曙弊順�薙巷蝕琵 - 及02態 - A31 敬�序嘔瀧斤恣狛幸土 - 叫銅�薙薙惇花垂

8、 ドイツのミュンヘンで参加した2015年の世界選手権です。9ラウンドの試合で内容はとても浮き沈みのあるものでした。最終的には5勝2和2敗で11位の結果で、国際棋聯大師のタイトルをとることが出来ました。最後の1局はとてもスリルのある対局でした。崖の上に追いやられたような1局で、もしも負けてしまうとチャンスを失ってしまう対局でした。この対局で私は、途中で見落としをし、ミスの手を指してしまいました。この時の私には2つの選択肢がありました。1つは厳しい局面をひたすら耐えて勝てるチャンスを狙う道です。ただこの道は負ける可能性が高かったです。2つ目は局面を直接穏やかな方向に運ぶ選択です。この選択の場合勝つことは難しいです。とても難しい選択で、10分ほどの大長考をしました。長考の末、私は1つ目の選択を選びました。そして、予想があたり相手にミスが出たことにより局勢は逆転し勝つことが出来ました。勝った後私はしばらく椅子に座り続けました。ゆっくり息を吸って何年間も目標にしてきたものを成し遂げたことを感じました。

○世界選手権の時の写真

9、 広東東莞(トウカン)市で2018年8月に行われた楊官麟杯の公開組の予選賽です。これは6位以内に入ると全国個人戦に参加する資格を得ることが出来る大会でした。最終ラウンドでは上海の蒋融冰選手とあたりました。私は後手で後がない状況で、勝つ以外6位に入るチャンスはありませんでした。私はこの対局で何とか勝利のチャンスをつかみ、運の良いことに最後は6位に入賞しました。これにより私は全国個人選手権の参加資格を獲得しました。

この大会でも私の一つの目標が達成されました。私は小さい頃からシャンチーの雑誌を家で読んでいました。比較的有名なのは“北方棋芸” (後に“棋芸”と言う名前に変わりました)と言う雑誌です。その雑誌には良く全国個人選手権の報道記事がありました。それらの記事の文章は素晴らしく、人々を引き付ける内容のものばかりでした。私は小さい頃からこの記事に魅了され、個人選手権の舞台にあこがれを持ってきました。そして、胡栄華さんや許銀川さん、趙国栄さん、呂欽さん等の選手の方々と同じ舞台に立ちたいと思ってきました。その幼いころからのあこがれがあったため、この全国個人選手権への参加資格を獲得することが出来たことには本当に感激しました。

10、 2018年11月の浙江省安吉で参加した全国個人選手権の乙組みの試合です。この試合は、初めての中国個人選手権であったこともあり、積極的に指すことが出来ず、指し方が保守的になってしまいました。多くの対局で積極的に指すことが出来ず引き分けになってしまい、最終的には1勝5和1敗の指し分けで甲級に上がることが出来ませんでした。ただやはり全国個人選手権に参加出来たことには大きな達成感があり、視野が広がった大会でした。鄭惟桐さんや洪智さん、于幼華さんなどの全国チャンピョンやシャンチー大師、アマチュアの強豪選手の方々と同じ場で競技することが出来たことは、とても光栄なことで、同時にとても幸福なことだと思いました。

○個人選手権の様子

国際大会への出場について

Q、シャンチーの国際大会に参加されたご経験があると思いますが、その経緯をお聞かせ下さい。

A、私は2011年から会社の派遣で、インドネシアで仕事をしていました。そのため2011年から2016年までの5年間インドネシアに長期滞在していました。この期間にインドネシアシャンチー協会に近付き、現地の大会に参加しました。そこでいくつかの成績を収めることが出来、レベル的にも認められました。そして2015年にインドネシアシャンチー協会と中国象棋協会により2015年のミュンヘンの世界選手権に参加することが認められました。 私は2015年の世界選手権に参加する前に2014年の世界オープンに参加しました。この大会はオープン大会だったため、参加資格もとくに制限がありませんでした。またこの大会に参加する前にも会社の出張のついでに香港やスペインの大会に参加したことがあります。

○インドネシアでの様子

Q、棋聯大師のタイトルをとった大会のお話をお聞かせ下さい。

A、2015年の棋聯大師をとった大会の最終局はとても深く印象に残った一局でした。とくに一局の過程がとても刺激的でした。またこの大会は試合全体の進み方もとても刺激的でした。第一局目にベトナムでの優勝経験のある鄭亜生選手とあたりました。鄭選手は2001年の世界選手権では4位に入賞しています。この一局は途中でミスが出てしまい相手の大優勢の局面になってしまいました。そして最終的には時間的にも局面的にも緊迫した状況になりました。しかし奇跡的に局面を挽回することが出来、この一局では入局もとてもきれいに進みました。

●鄭亜生選手との棋譜

咫鶴 含砂 覆 埆掴 孱冉伏 - 2015定捗嶄鵜及14曙弊順�薙助炎琵 - 及01態 - A63 狛幸土斤恣嶄土 - 叫銅�薙薙惇花垂

その後の第2、第5ラウンドは実力の差で庄宏明選手(フィリピン)と謝靖選手(中国)に負けてしまいました。そして第6、7ラウンドでは中堅レベルの選手との引き分けが続きました。そこまでの試合経過から、残りの2局を勝たなければベスト12位に入ることが出来ない可能性があり危険な状況になりました。嬉しいことに最後の2ラウンドは運も良く、重要な局面を全てよく指すことが出来ました。このように躓きながらも11位に入り国際棋聯大師のタイトルをとることが出来ました。

この大会では1-3位は国際特級大師、4-7位は国際大師、8-12位は国際棋聯大師のタイトルがもらえました。 私の当時のレベルと状態では前半に当たった選手に引き分けをとることも大変でした。相対的にまとめると仕事や家庭の事情と、前年の大会で国際棋聯大師のタイトルをとる機会を逃してしまったこと等が原因で、レベルも状態も下がっていました。確かに前年の大会で鄭惟桐さんと頼理兄さんとの引き分けがありましたが(その大会で鄭惟桐さんと頼理兄さんは1位と5位に入賞しました)、この年にもう一度同じ選手とあたった場合、同じように引き分けをとることは難しかったと思います。

2015年の大会、謝靖選手との対局の様子

シャンチーの普及について

Q、シャンチーの国内外での普及の状況について崔さんのお考えをお聞かせ下さい。

(国内)

A、中国でシャンチーは1980-90年には比較的重視された伝統的な種目でした。しかし現在は少し勢いが落ちているように感じます。シャンチーの専門棋士が有名な大学に入り注目度を上げてくれることで、子供を持つ親がシャンチー種目の可能性を知り、子供に習わせることが増えてゆけば、シャンチーには発展のチャンスがあると思います。

(国際)

A、最近はコロナウィルスの影響もありましたが、逆にそれは国際的なシャンチーの普及には大きな原動力になっているように思います。インターネット上の様々なシャンチーの大会やイベントが増えたためです。とくにヨーロッパでは最近「留学生」活動が推し進められています。その活動では、留学生のシャンチー愛好者の方に「ヨーロッパシャンチー聯合会」のグループチャットに入ってもらっています。以前ヨーロッパでシャンチーを普及していた時は何人かの華僑の方が対象でヨーロッパシャンチー聯合の加盟会員国は10個ほどでした。現在では留学生の愛好者の方々が加盟したことで、今後30~40か国が加盟国になる可能性があります。今後他の大きな地域(アジアやアメリカ等)と同じようにシャンチーの普及が進む可能性があります。

シャンチーを国際的に普及するにあたって、私の思う重要なことは大学でのシャンチー活動の普及と発展だと思います。なぜならシャンチーと言う種目の発展と普及には、ただルールを教えるだけではなく文化的な背景からもその魅力を伝える必要があるためです。このような切り口の普及は専業棋士やシャンチーで生計をたてているアマチュアプレーヤーだけでは足りません。シャンチーを大学の中の活動に取り入れることが出来れば、大学のような組織の中で高い知識を持ったシャンチー愛好者が増えます。そして彼らはその後社会に出て行き、自分の専門分野で一生懸命取り組んだ後、社会的な一定の地位につきます。その後、彼らはある時シャンチーと言う趣味を思い出し、シャンチーと言うスポーツを多くの方面で支持してくれるはずです。このような流れが継続されることで、シャンチーの普及活動はより発展して行くのだと思います。

Q、シャンチーのルールの普及以外で、どのような切り口での普及がシャンチーの普及の突破口になると思いますか。

A、多くの人に、シャンチーを通して人はより賢くなり、深い智慧を身に付けることが出来ると言うことを知ってもらうことが大切だと思います。どのような人でも聡明で智慧を持った人になることを拒絶することはないと思います。また、シャンチーはより多くの友人を探すことの助けにもなります。盤上で結ばれた友情は自然で純粋なものであり、長く続くものです。業界や社会層、身分や地位などをまたいでつながることが出来ます。

また私は、功利性の宣伝方法は良くないと思います。

例えば、「シャンチーを指すことはこれだけのお金を稼ぐことが出来る」

-これはあまり現実的な宣伝方法ではありません。

「シャンチーを指すことは良い大学に入ることが出来る」

-これは誰も宣伝として打ち出したいものではないと思います。なぜなら一般的にシャンチーを宣伝する意味はシャンチーにより賢くなることで良い大学に入ることではありませんし、シャンチーの成績が良いからそのまま大学へ入ることが出来るわけではありません。これも多くの人が一本の橋を渡ることのように、シャンチーのおかげで良い大学に入ることが出来る人は数えるぐらいしかいません。

私がシャンチーを学んでいた時に感じていたシャンチーの一番大きな魅力は、頭の中で広げられている深い計算が、自分を他の人よりも賢くしているように感じられたことです。他の人には見えていない世界が自分には見えていて、盤をはさんで高いレベルの選手と交流する時、船も進めないような深い場所に進むような感覚を感じることが出来ました。そのような感覚は私を深く引き付けるものでした。

Q、シャンチーを通して身に付けることの出来るものは、普段の生活のどのような場所に活きていると思いますか。

A、一番基本的な感覚の中で、シャンチーを指す子供の計算能力はとても高いと感じる点です。私が幼かったころ、同年代の子供の中で計算能力だけは明らかに秀でていました。小学校の数学は計算が主流ですが、計算能力が高いことは数学への興味を引き立てることになりました。その後私の数学の成績はずっと安定していました。中学では省で二番目に入る東北育才中学の数学の強化クラスに入りました。このクラスでは数学競技の国際的な金メダルを獲得した人が歴史上に多くいます。私の同級生もその一人です。その後高校などでも数学には復習などでかかる時間はあまりなく、時間を節約することが出来ました。大学入学試験では150点中144点をとることが出来ました。

また、2018年に私は補習の数学の教師をし、中学生の補習をみました。補習クラスで見た子供の一人はシャンチーが好きな子でしたが、補習クラス内でその子を教えることは比較的簡単に出来ました。

その他にも、象棋は人の思考回路をより厳格にするものだと思います。色々な出来事に対して細かく分類した上で整理し、その規律を総括した上で、解決のための手段をまとめます。 例えば数日前、私の家ではものが散らかっており、私は居心地が悪く感じました。そのため子供の本を整理し、分類し並べ直したところ、とてもスッキリしました。しかし妻や義父母は散らかった状態でしばらく過ごしてきましたがとくにそれを気にすることはありませんでした。私は友人と自分を比べているうちに、少しずつ自分はこのような習慣が他の人よりも分かりやすく出ているように感じるようになりました。これもシャンチーを勉強して来た過程で生まれた習慣の一つです。

勉強方法について

Q、日本でシャンチーを学んでいる方たちに向けて、勉強のアドバイスなどがあればお聞かせ下さい。

A、普段インターネットで多く指し、一局の総括をしっかりとすることが大切です。復盤の深さと精度は高くなければいけません。趙鑫鑫さんの名言で「不真面目な10局の復盤は、真面目に復盤した一局と比べて得ることの出来るものの量に大きな差がある」と言うものがあります。

また実際の大会に多く参加し、試合の経験を増やすことも大切です。ただ、私はあまりインターネットの大会は進めません。そしてシャンチーを好きでいることが必要です。努力していく過程で必ず挫折することがありますが、簡単に放棄してはいけません。挫折してしまいそうなときはシャンチーの本来の楽しさを思い出すことが大切です。シャンチーでの失望した経験や悩みを思い出す必要はありません。

体育競技には一定のシーシュポスの精神が求められます。この精神は、失敗しても続けてゆき、続けた上でまた失敗しても続けます。これを何度も繰り返してゆくことです。何度目で成功するかは分かりません。そして、ある時運が良ければ成功することもあります。もしかすると成功することがないかもしれません。しかし、悲観する必要はありません。多く考え、頑張って来た過程には精神上の充実と楽しさがあるはずです。その他では中国に留学に行くことや仕事に行き、国内のアマチュア大会に多く参加する機会をつくることも大切です。王天一さんや鄭惟桐さんも全国チャンピョンになる前の何年間かは多くのアマチュア大会に出場し、何度も優勝しました。彼らもそこで基礎をつくりました。

Q、シャンチーの勉強をしてきた中で印象に残っている書籍はありますか。

A、シャンチーの書籍で一番印象に残っているものは、家で長期間定期購読していた『北方棋芸』です。1989年から1999年まで定期購読していました。私はこの本を読んで繰り返し研究しました。『北方棋芸』は後々『棋芸』と言う名前にかわり、その後去年発刊が中止されました。私は『棋芸』の販売が終了し、とても残念に思います。私が大学に入って以降、よく大学の図書館へ行き『棋芸』を読んでいました。その後就職し社会人になった後、雑誌ネットの中で自分の読んでいなかった号の電子版の『棋芸』を全て注文し、読んでいなかった数年間の内容を読みました。

その他にも繰り返し読んだ本は多くあります。孟立国大師の『象棋大師争戦譜』の中の1986年の全国のシャンチー選手の棋譜と試合の経過についての文章や、少年シャンチー大会の優勝賞品で頂いた『棄子攻殺280例』と『反先奪勢300局』、入門したての時に読んだ『金鵬十八変』(これはその後繰り返し読むことはありませんでした)、『十連霸的棋芸精華』、『1993年中国象棋年鑑』(この本の中のシャンチーの名局を並べたりしました)、その他にもいくつかの棋士の伝記関連の書籍の中にも大切で手放すことが出来ないものが多くあります。(試合と対局についてのストーリーを書いた『王座攻守戦』などです。)

Q、思い入れのある盤コマなどで今も持っているようなものはありますか。

A、盤コマはあまりありません。なぜなら家の中で長い間しっかりと保存されていた盤コマが少なかったためです。1995年に棋友杯の少年組で準優勝した時に、商品として白色の石でつくられたコマをもらい、当時とても気に入っていてよく使っていました。しかし家で指している時に不注意で一つ割ってしまい、とても悲しかった記憶があります。その後2017年に甲級リーグで使われている木の盤とコマを買い、家で保存していますが、使うことは多くありません。

Q、現在のシャンチーとの付き合いや今後の目標などがあればお聞かせ下さい。

A、今は家庭での仕事分担もあるので、試合の参加には規制があります。自分の時間の状況を見た上で、自分自身がより成長できそうな大会に重点を置いて参加しています。例えば全国個人選手権のような大会なら私は絶対に時間を作って参加します。他にも国家大師や国際大師の可能性のある大会等もその1つですが、これらは強く目標にしていると言うよりは自然に身を任せています。結局のところ、このようなタイトルをとる人は皆シャンチーに多くのものをかけています。今の私にはそれだけの精力も、またそれにかけるだけの時間もありません。

おわりに

Q、崔さんにとってのシャンチーとはどのようなものですか。

A、シャンチーが私にとってどのようなものなのか。

1、少年時代、シャンチーは私の特技の一つでした。それは幼いころから名誉を得ることの出来るもので、シャンチーは私の生活の原動力でもありました。小学生の頃は比較的勉強のストレスもなく、当時はいつも試合に参加することを楽しみにしていました。そして試合でもよく優勝することが出来、先生や家族に褒められ、親戚や友達からも羨ましがられました。これらは生活の中で私にとってとても誇れることで、毎日がとても楽しかったです。またシャンチーは計算やロジックによる判断が必要なため、思惟を育てる面でとても大きな助けになりました。もちろんこれらは勉強にも結びつきました。

2、少年時代、シャンチーは1つの交友の道具でもありました。もしもシャンチーがなかったら私はこんなに沢山の友人と知り合うことは出来なかったと思います。またシャンチーで知り合った友人との交友は純粋で自然なものでした。このような自然に出来た交友関係は長く続きますし、とても大切なものです。

3、私はちょうど今中年の年齢(40-60歳)を進んでおり、様々なストレスを持って生きています。シャンチーは私のこれらのストレスを解消してくれます。あいた時間をシャンチーで埋めることが出来ます。 最近は、普段参加するアマチュアの大会では成績にあまり大きな関心がなく、自分のレベルを発揮することが出来れば満足です。またインターネットでシャンチーのライブ中継を見ていると、毎日の睡眠促進にも良い影響が出ます。

Q、崔さんの思うシャンチーの魅力についてお聞かせ下さい。

A、1、シャンチーは思考を継続的に訓練することが出来るので、脳の動きを保持することが出来ます。例え以前に似たような局面を見たことがあっても、毎局ごとに真面目に再度計算しなければいけません。このような重複した過程は人を退屈させるものではなく、毎日ジョギングに行くときのような感覚で心身ともに喜ばしいことです。皆さんも自身のシャンチーの理解がより深まれば、身体を鍛えて筋肉を増加している時のような感覚を感じるはずです。

2、シャンチーは中間的な難易度のゲームの一つです。とても複雑なものでもなければ、とても簡単なものでもありません。複雑でないので誰かがシャンチーを学ぼうとするときに尻込みするようなこともありません。また技術などを一切含まないほど簡単なものでもありません。シャンチーは毎局指し終わる度に得るものがあります。そして一局毎に技芸の境界を外に広げることが出来、知識の点でも学びがあります。ただそれは自分自身ではとるに足らない小さなものに感じることもあります。そしてまた、シャンチーの世界では、境界にたどり着くことは永遠に出来ず、いつまでも学び続けることが出来ます。

3、シャンチーは様々な方面での素質能力を訓練することが出来ます。シャンチーでは時に精密な計算が必要になることがあります。また時には思い切った手を指さなければいけないことがあります。このようにシャンチーでは真面目に局面を考え、勇気を持って策略を考えなければいけません。これは私たちの仕事や事業を営む上で備えるべき素質や能力と同じです。

4、シャンチーは分かりやすい簡潔な遊びの一つです。一局指すことに多くの時間を費やすものではありません。これはゲームを普及するための一つの条件でもあります。一つのゲームが受け入れられるためには、早く楽しさを体験することが出来、一局終わるとすぐにまた一局指し、疲れたと感じるまでずっと遊ぶことが出来ます。

5、シャンチーの歴史は長く、文化はとても奥深く、幅広い層の人にシャンチーは受け入れられて来ました。その中では素晴らしい物語が多くあります。このような素晴らしい物語は、言い伝えられ後世に残りました。そしてシャンチーの愛好者たちはそれらの言い伝えを話題にして楽しく話します。これらの物語もシャンチーの大きな生命力に繋がっており、シャンチーの魅力の一つです。


○万里の長城での写真


○おわりに

今回は中国の名門大学、清華大学のシャンチーチームの隊長を務めた経験のある、崔航さんへのインタビュー記事でした。シャンチーの思い出話や普及の観点からの様々なお話しを伺うことが出来、とても参考になるお話が多くありました!次に誰にバトンがまわるのか、お楽しみに(^^)/

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