シャンチー(象棋)トークリレーの9人目「才溢さん」へのインタビュー

トークリレー

(写真は財神杯視頻快棋賽での趙鑫鑫選手との対局時のもの)

シャンチー(象棋)トークリレーの9人目は才溢シャンチー大師です!

○このコーナーの説明

現在までのバトン受け渡し状況はこちら↓

鄭一泓さん汪洋さん趙鑫鑫さん曹岩磊さん党斐さん鄭惟桐さん呉優さん崔航さん→才溢さん(今ここ)


今回はシャンチー大師の才溢さんへのインタビューです!

( 財神杯視頻快棋賽 、対局後のインタビュー写真:左から洪智選手、趙鑫鑫選手、李鴻嘉大師、才溢選手)


才溢さんはこれまで様々なチームから団体戦や甲級リーグに参加されてきた選手です。そしてちょうどこのインタビューを通して私が才さんと知り合った頃、才さんは新たな道へ足を進めようとしていた期間でした。才さんはインタビューを受けて頂いていた期間に司法試験に合格され、今年からはそちらの道に進むとのことでした。シャンチーのプロとしても自分の道を追求され、学生時代にもっていた夢であった弁護士になることも叶ったと言うのはとても素晴らしいことだなと思いました。本来はどちらか一つを叶えることですら難しいことです。(インタビューは間に司法試験が挟まったり、私の出版が挟まったりで一年弱かけてゆっくりと進められたので、トークリレーの記事も久しぶりのアップになってしまいました…!)

みなさん、才大師へのインタビューをお楽しみ下さい!^^

今回の記事は才大師のシャンチー人生の総括なような内容の記事になっております!

とても充実した内容の長いインタビューですので、何回かに分けて読んで頂ければと思います!

(訳もがんばりました( *´艸`)b)

(盛龍教育传媒(メディア)会社のシャンチー賽の開会式にゲストとして呼ばれた際のもの)

シャンチーとの出会いと幼少期のシャンチーとのふれあいについて

1、シャンチーを始めたきっかけと、子供のころのシャンチーの勉強についてお聞かせ下さい。

私のシャンチーの旅は偶然始まりました。はじめの頃、私は父と叔父がシャンチーを指しているのを見ていました。大体一か月ちょっとの時間でしょうか、彼らの指している何局もの対局やその後の検討などのやり取りを見ている中でシャンチーのルールを覚えました。彼らははじめ私がシャンチーのルールを覚えていることを信じられない様子でいました。なぜならシャンチーに触れる前、私はシャンチーについての概念を何も持ち合わせていなかったためです。私は6才半まで三年ほどバイオリンを習っていました。バイオリンでは5才のころ人民大会堂に出演したこともあり、母は私が音楽の道へ進むものと思っていました。また、母は私がしっかりと勉強することを望んでおり、その考え方は比較的伝統的なものでした。その伝統的な考え方と言うのは、勉強以外に趣味で楽しむことの出来るものは一つあれば十分と言う考えで、母は私にバイオリンかシャンチーかを選ばせました。幼かった頃の私はシャンチーの魅力を深く吸収し、バイオリンを弾くことが味気ないものに感じるようになって行きました。バイオリンではいつも繰り返し世界の名曲を練習しており、私は早い段階からそれに飽きはじめていました。そしてある日、私はどうしてもバイオリンを勉強したくない気持ちから、バイオリンを壊してしまい、母と大喧嘩をしました。その時、私は母に「シャンチーを勉強したい」とわがままを言いました。

家族は皆、私がシャンチーを勉強したいと思っていることを知っていましたが、それでも私の意思を尊重してくれたことはありませんでした。

その後私が小学二年生の頃、学校にシャンチーのクラスが出来ました。毎週一回固定で行われるシャンチーのクラスは私とシャンチーを再度繋げてくれるものになりました。授業で先生は、コマの動かし方や基本殺法などのとても基礎的なことを説明しました。また皆さんが良く知っている『橘中秘』の中の“弃馬十三招”も授業で習いました。私は毎週一度のシャンチーの授業の機会をとても大切にしていました。授業では先生と積極的にかかわり、先生に気に入られ受け入れてもらえました。当時、先生は私に「君は才能があるから正式に棋院や少年宮に行って勉強した方がいい、そのほうが進歩も早いですよ」と言いました。

家に帰った後、私は両親に先生の話したことを伝えました。父は私がシャンチーを学ぶことを良いことだと感じたようですが、母は学業への影響を心配して断固として反対しました。最終的に母は妥協し、私が少年宮のシャンチークラスで学ぶことを了承しました。しかしそこには「一年以内にシャンチーの成績を収めることと、学業の成績を落とさないこと」と言う条件がありました。母は私が一年以内に何の成績も収められなかったら、私が自然に興味を失くすものだと思っていたようです。私のバイオリンがそうだったように、子供の頃の趣味はすぐに変わるものなので。

あるとても冷えた冬の日、両親は私を連れて少年宮のシャンチークラスの申し込みに行きました。行くときはただ申し込みのための費用を払えば良いものだと思っていたのですが、行ってみると申し込み前に試験がありました。これは想定外のことでした。私は試験のことをよく覚えています。試験は全部で三つの大題があり、前の二つは全て数歩の連続ジャンの殺法の残局問題で、他の一つは実用残局でした。担当した試験監督の先生は「少年宮のシャンチーのクラスは初級クラス、中級クラス、上級クラスに分けられます。二分以内に答えられた回答を見てクラスを選択します。」と言いました。私は当時その実用残局にとても興味がありました。そのため先生に「最後の問題から答えても良いか」と尋ねました。先生は両親からの情報で私には基礎の知識がないものと理解しており、初級クラスなら連続ジャンの問題も解かなくてよいので、そのまま初級クラスを選ぶことを説得しました。しかし、私は最終的に上級クラスの試験を受けることにしました。試験問題は「炮単士対双士」の残局問題でした。

この残局はポイントを勉強している人にとっては比較的簡単なものです。ただ私は「シャンチー初心者」だったので、当時の私にとっては疑いようもなく難しいものでした。何度も局面を繰り返した後、やっとのことで試験を通過することが出来ました。私はついに北京市の少年宮のシャンチー上級クラスで勉強することが出来るようになりました。あれは1992年11月のことで、私が8歳の頃のことでした。

1993年2月、私は人生で初めてシャンチーの大会に参加しました。その大会は北京市少年シャンチー大会で、大会は年齢別に甲乙丙の三つの組に分かれていました。私は男子の乙組(10歳以下の組)の試合に参加しました。少年宮で二か月ちょっと学びましたが、私はまだ試合の経験がありませんでした。そのため当時はとても興奮する気持ちを持ちつつも、とても怖く感じていました。普段のシャンチーのクラスでは模擬試合を行ったことがありましたが実際の大会とはやはり異なりますし、正式な大会のような真剣さがありませんでした。あの時の大会は総当たり戦でした。全ての選手とあたる試合で、私にとってはとても得難い勉強の機会でした。

予想外なことに私の試合過程はとても順調で、私のポイントは常に前の方の順位にありました。全体の試合の過程で一番印象に残っていることはすでに四年間シャンチーを勉強している一つ年上の選手との対局です。対局前に彼は私にどれぐらいシャンチーを学んでいるのか聞きました。私はその問いにとても申し訳ない気持ちで2か月ちょっとだと答えました。彼はそれを聞いてとても驚いた様子で「僕はもう四年も勉強してきた、君はまだたったの二か月なら、投了しなよ、指さなくていいよ」と言いました。私は当時その言葉を聞いてとても不服で悔しい気持ちでした。私は彼に「まあ試してみようよ」と返事をしましたが、彼はとても私をバカにしている様子でした。当時の私は怖いもの知らずでした。相手の態度によって私の潜在力が奮い起こされてしまったようで、結果は意外にも私が勝ってしまいました。対局後相手はすぐに母親の元へ走って行き「もう二度とシャンチーを指したくない、勉強をはじめたばかりの人にも勝てないなんて!」と泣きながら言いました。

この大会で私は最終的に準優勝することが出来ましたが、少年宮の上級クラスで学んでいる若き天才に負けてしまいました。彼は四歳で少年宮に入りシャンチーを学び始めました。ずっと少年宮の最強選手で彼よりも何歳か年上の甲組の選手も皆彼に勝つことはありませんでした。後のお話ですが、この大会後私はずっと彼を目標にし、一生懸命彼を追いかけ、二年間が過ぎました。そして1994年の北京市「金棋王杯」少年シャンチー賽でついに彼に勝つことが出来、この大会で優勝することが出来ました。

試合が終わり家に帰りました。母は私が短い期間で優勝することが出来たことを見て以降、やっと私がシャンチーを指すことをとめなくなりました。この時から私のシャンチーの道は正式に幕を開きました。

学生時代【幼少期編】

2、学生時代のシャンチーの取り組みや当時の印象に残っている出来事をお聞かせ下さい。

【幼少期編】

母が正式に私がシャンチーを学ぶことに同意した後、私が他のものに興味を持つことはありませんでした。学校の勉強とたまに見るテレビ以外は基本的にずっと棋譜を読んだり並べたりしていました。シャンチーの魅力はとても大きいもので、一人の子どもを夢中にさせ、ひたらせることが出来るほどです。当時はまだインターネットがそんなに発展しておらず、少年宮での他の子どもとの交流以外、普段自分にあった相手と練習することはありませんでした。これはとても大きな欠点でした。対局相手がいることはとても重要なことです。もしも身近にレベルの近い人がいて毎日切磋琢磨し合うことが出来れば進歩の速度はとても早いです。

しかし実際のところ当時の私は孤独ではありませんでした。有名な武侠小説家の金庸先生の『神雕侠侶』の中で描写されている「左右互搏術(左右の手でたたき合うような動作)」と同じような感じで、自分で紅を指しながら黒も指し、ある時は盤を回したりして、私は完全にシャンチーの研究の楽しさの中に浸っていました。

1993年、私は北京国際飯店で行われたシャンチーのイベントに参加し、はじめて大きな世界を見ました。活動の過程の中で幸運にも中国棋院の院長王汝南さんや著名な武侠小説家の梁羽生さん*(*金庸、古龍、温瑞安と並び、四大武侠小説家と呼ばれています)、特級大師の呂欽先生や柳大華先生、またシャンチーを熱愛する外国の方に出会うことが出来ました。王汝南さんは囲碁の九段でシャンチーのレベルもとても高い方です。王汝南さんは空き時間に私のような駆け出しの子供にも指導をして下さいました。

(1995年北京国際飯店での中国棋院院長王汝南九段との対局の写真,才さんの左の方は梁羽生先生)

また、このイベントで私の記憶に強く残っているものは、梁羽生さんが少しも偉ぶることなく、私と何局も対局し、お互いに勝ったり負けたりしあったことです。梁さんは「鴛鴦炮」の戦法に詳しく、先手でも後手でもこの陣形を好んで指していました。私は梁さんのこの陣形の戦法を解決するために、夜家に帰った後専門的に研究しました。翌日また長い間対局をしましたが、疲れを感じないほど楽しみました。当時棋牌周報で私と梁羽生さんの対局の様子の写真が取り上げられました。私にとっては貴重な思い出です。梁先生はすでにお亡くなりになりましたが、梁先生の穏やかな笑顔はいまも私の心に残っています。私は梁先生こそ正真正銘の侠士だと思います。

(1995年北京国際飯店での梁羽生先生との写真)

1994年、金棋王杯”北京市少年シャンチー賽で私は男子甲組で優勝しました。これは私のシャンチー人生で初めての優勝でした。その時の賞品は特別で、優勝の奨励はアニメーションデザインの将軍の彫刻と立体シャンチーでした。その大会のスポンサーは独創的で立体シャンチーを試しに導入しました。私たちの試合のシャンチーも立体シャンチーでした。立体シャンチーは当時数年の間、大会で頻繁に現れました。最終的に完全に普及されることはありませんでしたが、シャンチーの発展には積極的な作用をもたらしました。

“金棋王杯”で優勝した後、私は自信を持てるようになり、棋芸のレベルも同年代の中では高くなりました。その年、私は北京市のシャンチーの等級賽に参加しました。これは私が成年の人と一緒に参加したはじめての大会です。私が子どもだったために、成人選手は私からポイントを簡単にとれると思い早く勝とうとしたのか、結果的に私が勝つことになった対局が何局もありました。試合は全部で9ラウンドでしたが、6ラウンドでなんと私は1台に座って、その大会の優勝者と対局をしました。実力がかけ離れていたことや試合経験にも差があったこと、また相手が私との対局をすごく重視していたことなどから、私は何の意外性もなく負けました。この一局が私に与えた影響は大きく、家に帰ってから私は長い時間をかけてこの一局の総括をしました。その一局で私は一段上の階段に上ることが出来ました。その後の3局で私は正常に力を発揮することが出来、棋譜の内容も問題ありませんでした。最終的には8位に入り、二級運動員になることが出来ました。シャンチーでは「二級棋士」と言います。当時の私は10歳でした。おそらく最も若い二級棋士だったと思います。

1995年、私は再度北京市のシャンチーの等級賽に参加しました。この時の成績は前回には及ばず、最終的には17位でした。当時の私のレベルはまだ安定していませんでした。また対局相手も私を重視しており、結果もよく考えてみれば当然なものでした。あるシャンチーの有名人がこのように言っていました。「レベルが不安定だと言うことはまだまだ伸びる空間があると言うことで、一旦レベルが安定すると基本的にレベル感は決まったと言うことです」。まさにそのようなことなのだと思います。

同じ年の北京市での第九回運動会の予選賽で、私はシャンチー大師の何連生さんをはじめとする強豪の多い「死亡組み」に分けられました。この時私ははじめてシャンチー大師と対局しました。しかも正式な大会の中での対局です。当時の興奮した気持ちはとても言葉では表すことが出来ません。何大師はとても高名な方です。有名な映画「棋王」は何大師の物語を原本にして撮られました。シャンチーをあまり知らない多くの人も皆何大師のことを知っていました。当時の大会で私がまだ幼かったためか、何大師は少し軽めの相手として私を認識したようでした。

何大師が「鴛鴦炮」の少しかわった陣形を私に試した時、私は心の中で喜びました。なぜなら以前梁羽生さんと指した多くの経験の中で似た陣形を研究したことがあったためです。開局はとても順調で、大きな優勢を占めました。何大師は後になり危険を感じましたがすでに挽回は間に合わず敗局になりました。私は最終的に勝つことが出来ました。これは私の人生ではじめて正式な試合の中でシャンチー大師に勝利した経験でした。この一局は私にとってとても大きな意義のあるものです。その日の北京の夕刊にこの大会のニュースが取り上げられ「11歳の天才少年がシャンチー大師に勝利」と言った記事が出ました。確かに私は何大師に勝ちましたが、他の選手との試合は躓くことが多く、最終的には試合は予選の次に進むことが出来ませんでした。

(1995年の北京晩報、はじめてシャンチー大師に勝った時の記事で当時才大師は11歳でした)

この年、私は何も収穫がなかったわけではありませんでした。河北省で行われた“広播(ラジオ)棋聖杯”全国シャンチー青少年大会で準優勝しました。優勝したのは地元選手の申鵬選手でした。申鵬選手は今では特級大師です。私たちはお互いに7勝4和の成績で、対手分で最終順位が出ました。この大会の結果は確かに良かったですが、試合過程は非常にスリルのあるもので、何局かの重要な対局は運が良かったこともありました。外の世界は私に「上には上がいる」と言うことを再認識させてくれました。

1996年、私は特別な奨励を受けました。全国政協科教文衞体委員会、全国婦女聯合主催の“双霊杯”21世紀希望之星評選活動の全国の100名の枠に選ばれました。はじめは学校が私を推薦してくれました。先生は私に参加することに意味があるものだと言いました。全国には多くの優秀な子供がいるので、私は自分が選ばれるはずはないだろうと思っていました。その中でこのような栄誉に選ばれた私はシャンチーに感謝しなくてはいけません。評価委員会の選考の中で私は目立ったのかもしれません。大きな要素としては私のシャンチーの勉強経歴は多くの人と異なりました。大部分の人は数学オリンピックや英語を学んでいました。この年、私は北京市のシャンチー等級賽で4位になり、一級運動員(シャンチーの一級棋士)に上がっていました。これは比較的大きな突破でした。シャンチーの等級体系の中で一級は最も高く、最も低いのは十六級棋士です。そしてその上は大師です。ただ私の当時のレベルは大師クラスのレベルからは遠く離れており、全体的に実力をのばす必要がありました。

1997年、私が市の少年宮を離れてすでに二年が過ぎていました。親友の紹介で私は1995年から張慶敏先生について勉強していました。張先生のところでは2000年前後あたりまで習っていました。張先生は確かに引退して何年も経っていましたが、教える経験が豊富でそれぞれの生徒に合わせて教えてくれました。張先生には多くの弟子がいました。張強さんも張先生門下です。

また、私はこの年の北京市の等級賽で三位になりました。前の年よりも少し進歩しました。同じ年に私は全国少年選手権大会の男子14歳組でも三位に入りました。ただ確かに成績的には伸びていましたが、私は自分が停滞期に入っているように感じていました。主要な原因は普段の実戦機会の少なさです。当時、インターネット対局などはあまり盛んでなく、普段の対局が不足していました。このように外との交流がない状態が長く続くと自分の範囲から出ることが出来なくなってしまいます。家族と相談した結果、最終的に私は東北へ行くことにしました。この年の夏休み、父は苗永鵬先生に連絡しました。そして、私を苗先生の家へ送り届け、学べるようにし、父は先に帰りました。苗先生は典型的な実戦派で、張先生の理論派の教え方とは全く異なりました。苗先生は実戦を通して多くの問題を解決することが好きでした。またこれは私が瀋陽に学びに行った目的でした。

東北に滞在中の一か月、私は苗先生とほとんど一緒に過ごしました。昼間は先生が私をお茶屋さんに連れて行って下さり、そこで対局をし、夜も家に帰ってから何局か快速戦を指しました。先生はとても精力的で、私の目が開かなくなりそうな時でもよくまだ指そうとしました。私の印象に深く残っていることは先生が軍棋もとても強かったことです。お茶屋さんでも一人で数名の相手を同時にしていました。それも軍棋とシャンチーを同時に指しており、先生は勝つことが多かったです。お茶屋さんの中には指す時の決まりがあり、それは少しのお金をかけて指すことでした。これは「彩棋(駆け将棋)」と呼ばれます。そこには棋類で生計を立てる人もある程度いました。彼らはシャンチーを指すことで経済的な利益を得ることを望んでいました。

私が現れたことで彼らに「商売チャンス」がうまれました。はじめの頃、私は彼らの「野路子(棋譜や一般的な棋理に従わない指し方)」に適応することが出来ませんでした。私はちゃんとシャンチーをクラスで学んでいた原因から、棋型やコマの協調などを重視していましたが、彼らの棋路は常識的な思考から外れることがよくあり、異常な攻撃をしてきました。一週間が過ぎた頃、私は少なくない学費を払いました。苗先生は私に数名の強い相手を選びました。その中でも私が最も多く対局したのは地元の有名選手であった張石さんです。張石さんははじめ私と二先のハンデで対局してくれましたが、私は負けることが多かったです。最後の方になり徐々にその距離は縮まって行きました。張石さんのお話では彼と同じレベルの人は東北には百人ちょっといるとのことでした。私は瀋陽に来る前に北京市の等級賽で三位に入りましたが、東北棋士の相対的なレベルはとても高いものだと知りました。

この一か月の体験で、私は前の数年間よりも対局数が多くなりました。ある日、私はお茶屋さんで夜まで指していました。苗先生は他の人と対局をしていたので、私は先に自分で家に帰ることにしました。その時に私が方向音痴なのだと言うことが証明されました。私は夜の九時過ぎまで自転車で路をグルグル回っていました。途中で警察のおじさんにも道を聞きましたが具体的な方向を教えてくれませんでした。当時はまだ携帯を持っておらず、連絡をとることが不便で、苗先生とも連絡をとることが出来ませんでした。当時私はとても怖く、とてもお腹が空いていました。私は屋台でお弁当を買いお腹を満たしました。親切なお店の人は私がまだ小さいのを見て、お店を閉める時に私にお弁当を二つ下さいました。ご飯を食べ終わった後、私は行く場所がなく、本当に疲れて橋の下で一日を過ごしました。これははじめての野宿でした。思い出すととても惨めな経験です。

翌日、明るくなってから私はすぐに起きてお茶屋さんに行きました。朝になってすっかり目が覚めたのか迷うことなく向かうことが出来ました。お店に入ると苗先生は激戦中でした。先生は一睡もせずに対局をしていました。私は先生に何も説明しなかったですが、先生も他のことを考えられないような雰囲気でした。その日から私はもう二度と一人で帰ろうとするようなことはありませんでした。もう街中で野宿をしたくありません。

そしてあっと言う間に一か月が過ぎました。私のシャンチーのレベルも大きくのびました。張石さんとの対局でそのことを証明することが出来ました。はじめは二先でも私は負けることが多かったですが、帰る頃には二先のハンデがなくても指すことが出来るようになり、勝率も半々ぐらいになりました。この一か月で私は大きく成長することが出来ました。シャンチーに対しての知識も飛躍的に伸びました。主に実戦によって前に学んでいた理論の中での空白だった箇所を埋めることが出来ました。

1998年、瀋陽から帰った私は生まれ変わったかのように連続して4つの北京市の成人の大会で優勝しました。確かに運の要素もあったと思いますが、自分自身でもこれまでと全く違うと言うことを感じていました。この年、北京棋院の張強大師は私を棋院のチームに呼び、試しに訓練することにしました。棋院のチームの空き枠には限りがあります。張大師は私が一年休学して、専念してシャンチーを学んだ後に機会を見て北京チームの正式メンバーに入ることを望んでいました。この時私は二つの難しい選択を迫られました。私は学校での勉強環境がとても好きでした。そしてまた、私はシャンチーのレベルもちょうど伸びる時期でした。どちらも選択することは難しい状況でした。最終的に、母のすすめで私は一年間の訓練の道を歩むことになりました。訓練期間、私は半日棋芸の訓練をし、半日は学校の勉強を自習する日々を過ごしました。必要な訓練以外は、毎日朝になると棋院に行き掃除をしました。お湯を部屋に運び、床を掃き、モップをかけ、窓や机をふきました。大体一時間ほどで全て終わりました。張大師はこれも訓練の一つだとおっしゃっていました。

1999年、一年の訓練期間が過ぎようとしていましたが、私は実質的な進歩をしていませんでした。もしかすると才能の限界だったのか、それとも方法の問題だったのか、他の原因があったのかもしれません。この一年で私が唯一得たものは、全国シャンチー少年大会での男子16歳組の4位でした。この大会の8位までには蒋川さんや汪洋さん等の潜在力を持った棋士もいました。彼らの歩みは明らかに進んでいました。訓練期間の後私は学校生活に戻りました。確かに一年休学をしていましたが、私の頑張ってきた自習は効果があり、すぐにみんなに追いつくことが出来ました。

2000年、私は運の良いことに“翔龍杯”第1回シャンチー南北擂台電視快速賽に参加することが出来ました(擂台賽は勝ち抜き戦の大会のこと)。私は北方チームの一人目として出場しました。私の相手は広東の朱琮思大師で、彼は南方チームの一人目の選手でした。この大会のルールは南北各チームが8名の代表を選び、一人目は16歳以下の少年代表を入れること、二人目は女子のチャンピョンを入れること、そしてその後に男子の専業大師を入れることでした。北方チームの主将は趙国栄先生で、南方チームの主将は胡栄華先生でした。朱琮思さんは呂欽先生の弟子です。試合開催前、呂欽先生は朱琮思さんに専門的な快速戦の訓練をしました。比べてみると私の状況は少し切迫していました。試合期間は高校入試の二日後で、特殊な理由から試合開催地が保定に変更になったため、私は訓練をせずにすぐに電車に乗る必要がありました。

大会前、張強大師は私が二人目まで倒し、三人目までたどり着くことを望んでいましたが、準備の状況から考えても私はすでに若干劣っていました。またはじめて三台のカメラに撮られる試合に参加し、私は少し緊張していました。大会は二局制で、一局目は落ち着いて指し引き分けでした。二局目がはじまり、布局で主導権を握ることが出来、優勢になりました。しかし前の訓練不足のせいで快速戦の習熟度が足りず、持ち時間は大きく不利な状況でした。時間がおすにつれて朱選手は指すのがどんどん早くなって行き、局勢も彼に傾きはじめました。その時のレポーターの声は今でも鮮明に覚えています。レポーターは「才溢はもうすぐ時間が切れます!カメラを才溢に向けて下さい!カウントダウンを始めます!…10…9…8…」と言っていました。何故だか分かりませんがその声は試合会場に響いていました。最終的に機械の音が鳴り、私の時間切れになりました。当時私の頭は混乱していました。背中には汗が染みていました。私は多くの人の期待と自分自身も裏切って負けてしまいました。ただ、試合と言うのはこのように残酷なものなのです。相手の準備はより充実しており、幸運の神様は努力した人にやさしいものなのです。

その後全国少年シャンチー大会の開催中、私はまた朱琮思さんに負けました。彼は勇敢に力を発揮することが出来たおかげで優勝し、全国少年シャンチー大会からシャンチー大師になった最初の棋士になりました。この時は、はじめて緩和政策がとられ(この大会以前は全国少年シャンチー大会で優勝しても大師のタイトルはとれませんでした)、私にとっても確かに一度きりの最初で最後のチャンスでした。なぜなら後一年で年齢がオーバーしてしまうためです。試合と言うのはこんなにも残酷なものです。大師の枠は一つだけで、他の多くの選手が私と同じようにもうすぐ年齢オーバーしてしまう状況にありました。

この時の大会では全体的に比較的正常に力を発揮することが出来ました。確かに大会のチャンピョンには負けましたが私は3位に入ることが出来ました。試合の過程で私は孟立国大師や金波大師と知り合いました。彼らはどちらも東北の著名棋士で、孟立国大師は「殺象能手」、金波大師は「大力神」と称えられていました。彼らから見れば私の実戦経験は豊富ではなく、再度東北に鍛えに行くべきだと言われました。私は金波先生と約束し、時間を作って瀋陽にまたシャンチーを学びに行く約束をしました。

学生時代【高校編】

【~高校編】

少年賽が終わった後、私は家に帰り高校入試の結果を待っていました。以前張強大師は今回の少年賽で3位以内に入れば北京チームに入ることが出来るとお話されていました。そのため志望校の欄には通っていた中学の高等部のみを希望しました(学校生活ではなくシャンチーを中心にして行くつもりだったため、あまり高校に関心がありませんでした)。入試の際に比較的リラックス出来ていたためか、私の高校入試の成績は良かったです。私は良い高校の合格点を取ることが出来ましたが、入試前に志望校の欄にその学校を書かなかったためその学校へ行くことは出来ませんでした。これは私の後悔の一つです。私は当時シャンチーを指すことがとても好きで、家族も私がシャンチーの専業棋士の道に進むことを支持していました。そのため学校での勉強は第二の選択でした。俗語で「甘蔗没有両頭甜(両側が甘いサトウキビがないように、どちらも良い状態であることはないと言う意味)」と言う言葉があるように、勉強とシャンチーどちらも上手く行くことはありません。私が専業チームに入るために家族は多くのことをしてくれました。そして早く専業チームに入ることを望んでいました。

高校一年が始まる前に張強大師は私を訓練に入れました。私は再度休学の手続きをしました。この時は一学期の休学を申請しました。家族は今度こそきっと専業棋士になれるものだと思っており、私自身も学校にお別れを言う時が来るのだろうと思っていました。もとの条件では順調に専業チームに入れるはずでした。しかし物事は本当に予定通りには進みません。張強大師は私を専業チームに加えることはせずに、再度一年の訓練期間を設けました。この期間は私にとってとても苦痛なものでした。家族も私の将来を心配していました。もしも一年後また私に一年の訓練期間を設け、ずっと専業チームに入ることが出来なかったら、私の将来はどんどん狭まります。私は一年の訓練を受けるかどうか悩んだ時期に、再度瀋陽に行くことを決めました。この時は瀋陽棋牌院と金波先生の元へ学びに行くことにしました。

二度目の瀋陽です。瀋陽は良く知っているようで知らない場所でした。もっと成長するために私は瀋陽棋牌院の中に住むことにしました。棋牌院には宿泊用の部屋はなく、訓練室にベッドの板が一つありました。棋牌院での生活条件はとても苦しいものでした。当時の環境は永遠に忘れることが出来ません。訓練室には20セット以上のシャンチーの道具がありました。部屋には沢山の蚊が飛んでいて眠つけないことも多くありました。食事については自分で解決しなければいけませんでした。時々お昼に棋院のおばさんの作るジャージャー麺を食べることが出来ました。当時はレベルを上げるためならどんなに辛い状況でも耐えることが出来ました。私を喜ばせてくれた出来事は今回の勉強が孤独ではなかったことです。私の身近には常に二人の常連客がいたことです。一人は賈丹大師、もう一人は崔岩大師です。

あの頃、賈丹さんも棋牌院に良く訓練に来ていました。金波先生は私たちが違う相手と対局出来るように手配して下さり、金先生も自ら指して指導して下さることもありました。また崔大師は棋牌院でインターネット対局をすることが好きでした。私も夜寝付けないときにインターネットでシャンチーを指すことが好きになりました。やみつきになり一晩中指してしまうこともありました。当時インターネットシャンチーはまだ始まったばかりでした。多くの強いプレーヤーが聯衆シャンチーネットでシャンチーを指すようになり、とても盛り上がっていました。時間が経つにつれて私は賈丹大師や崔大師と良い友人になりました。同時に他の強豪プレーヤーとも知り合いました。私の印象に最も深く残っているのは金松大師と許偉さんです。私が瀋陽から北京に帰る頃まで、彼ら(金松大師と許偉さん)との対局の戦績はやはり負けが多かったです。

一か月はとても早く過ぎました。私自身自分がどれだけのものを得ることが出来たのか分かりませんでした。ただ試合の効果を見る限りある程度の効果はあったように思います。全国シャンチー個人選手権では数名の大師に勝ちました。全国団体戦では北京チームの代表になり男子乙組みの団体2位を獲得しました。私個人の成績は第4台で七勝一和一負でした。

(2000年棋芸雑誌北京チームが甲組に上がった時の報道、この時の成績は7勝1和1負で北京チームの甲級入りに貢献することが出来ました)

2001年、私は順調に専業棋士のチームに入ることが出来るものと思っていましたが、最終的に良いニュースを受け取ることが出来ませんでした。張強大師はチームに入るためにはもう一年訓練をする必要があると言いました。私も家族も、プロを目指して訓練に行くか、学業に戻るかを決めなければいけないと感じていました。一年後は私も18歳です。この時、私は学校の道に戻るしかありませんでした。これは私にとってとても苦しい決定でした。高校の勉強のストレスは非常に大きいものです。私は自分で高校一年の分の教科書を学びましたが、重点クラス(成績の良い人が集まったクラス)のみんなと比べると一回り以上の差がありました。進度をあげる努力をするべく、私は、シャンチーは一度置いておき、勉強を第一に優先することにしました。そしてちょうど私がシャンチーの専業棋士でない道に進むことになるのだろうと思った時、火車頭シャンチーチームが私をチームメンバーに迎え入れてくれることになりました。私はとても嬉しかったです。

火車頭シャンチーチームは業界体育協会チームの一つで、専業チームとは大きく異なります(専業チームは地域のものが多く、業界チームとは異なります)。チーム内の大師は鉄道関連の仕事をしています。普段は自分の仕事があり、試合がある時にのみ選手として参加します。

この年、全国団体戦の改革が行われ、全てのチームの第4台は18歳以下の少年選手を置かなければいけなくなりました。そのため火車頭シャンチーチームと私はお互いのニーズが結びつきました。

火車頭シャンチーチームの大きな利点は二つありました。一つは学業との両立が可能なこと、もう一つは列車(電車)に無料で乗れることです。団体戦の開始前、私はチームの大師の皆さんにお会いしました。とても豪華なメンバーでした。于幼華大師から始まり、金波大師、楊徳琪大師が私を連れて団体戦に行くメンバーでした。チームにはその他にも宋国強大師、陳啓明大師、謝巋大師、崔岩大師などがおり、それぞれが高いレベルを持っていました。大会前に集まる時間は短かったですが大師の方から学ぶことは多くあり、とても実りあるものでした。

団体戦は四川省の楽山市で開催されました。楽山市は当時放送されていたテレビドラマの「風雲」の撮影場所で、私たちは運の良いことに趙文卓さんや蒋勤勤さん等のテレビスターを見ることが出来ました。しかも彼らは同じホテルのVIP棟に泊まっていました。この時の大会は楊徳琪大師のパフォーマンスは素晴らしく、試合に出ると五連勝し、私たちのチームの順位は上の方に並びました。私個人の成績は安定しており、総成績は7勝1和1敗でした。私は上海チームの特級大師万春林さんに負けました(この時上海チームは戦術的に少年選手を前の台に出していました。試合ルールを利用した合理的な戦略です)。最終的に火車頭シャンチーチームは3位に入賞しました。私はこのチームの成績のおかげで高レベル運動員の資格に申請することが出来ました。

年末には第13回全国棋友杯大奨賽で、私は9勝4和の成績で、男子成年組みで優勝しました。運の良いことに大きな賞をとることが出来ました。これは私がはじめて掴んだ全国成人大会の優勝で、言葉にすることの出来ないぐらいの喜びがありました。ただ試合過程はとても苦しいものでした。準優勝した白殿友さんとの対局は試合中の形勢が途中で一度とても厳しい状況になりました。中局の段階で局面が崩壊する危険がありましたが、危険な局面で私は相手からの圧力のある指し方に耐えることが出来、逆転勝ちをしました。この勝利が私を優勝の道に導いてくれました。また後々の話ですが、この優勝賞金は大学の学費に結びつきました。

2002年、私は高校2年になり、勉強のストレスはより大きなものになって行きました。この頃すでに私にはシャンチーの練習をする時間もありませんでした。たまにインターネットで快速戦を指す以外の時間は全て勉強にあてられました。この年唯一参加した試合は全国体育大会でした。火車頭シャンチーチームが私に鍛えるための機会を作って下さいました。私はこの大会で男子の専業棋士組の中で戦うことが出来ました。第1ラウンドで、私は「羊城少帥」と呼ばれた呂欽先生とあたりました。この対局では呂欽先生は私を甘く見ていたのか、運の良いことに引き分けをとることが出来ました。続けて卜鳳波先生や趙国栄先生等のトップ棋士とあたり、私は彼らとの間にある境界にとても大きな差があることを感じました。トッププロのシャンチーの理解はとても徹底したものでした。

2003年、大学入試まであと一年になりました。この年、北京は前代未聞の「SARS(重症急性呼吸器症候群)」事件に遭遇することとなりました。学校は私たちに自宅で学習するように通知を出しました。家での学習期間、私は我慢することが出来ずにインターネットで数局指しました。当時一番流行っていたのは「弈天棋縁」と言うサイトでした。この年、第一回全国シャンチー甲級リーグが開催されました。甲級リーグがうまれたことはシャンチー界の発展の記念碑的な意義がありました。甲級リーグはシャンチーの商業化や市場化の道を切り開きました。私は火車頭棋牌倶楽部チームの一員として、幸運なことにこの大会に参加することが出来ました。

第1回大会は総当たり制(全てのチームが一回ずつあたる総当たり)で、全部で13ラウンドありました。試合は一か所で行われる対局と、各チームのある場所で行われる対局がありました。私はその内の11ラウンドに参加し、2勝3敗6和の成績でした。これは私が予想していたよりも良い成績でした。

この中の数局の試合は今でもよく覚えています。一つは、はじめて正式な試合で対局し、私に指導して下さった苗永鵬先生のことです。おそらく互いによく知っていたためか、私たちは早い段階から車のない対局になりました。残局段階で苗先生は私の囲子戦術(コマを囲って逃がさないようにする戦術)を見落としてしまい「象尖炮(相手の高象のところにある炮)」の捉のかたちになり(炮は逃げることの出来ない局面)、私は比較的順調に勝つことが出来ました。ほかの李来群先生と張強大師との2試合もどちらも残局まで指し続けました。李来群先生はシャンチーを指さず長年ビジネスをしていました。そのため最も強い時期を過ぎていたかもしれませんが、試合経験やシャンチーへの理解は最高の域に達している強大な力を持つ相手でした。正式な試合で李来群先生と一局勉強することが出来たことはとても大きな幸せでした。この対局では快速戦を指すことになりました。開局から中局の段階では李来群先生はしっかりと主導権を握り、指していました。先生は一度二兵多い局面にまでなりました。しかし長年シャンチーから離れていたためか、残局段階で李先生は持ち時間が厳しい状況になり、緩い手が出はじめました。私は戦いつつ逃げ回ることで、幸福なことに最終的に逃げ切ることが出来、引き分けになりました。もしも持ち時間の長い試合だったとしたら結果はきっと違うものになりました。

張強大師との一局は複雑で多くの曲折がありました。布局段階で私は「飛刀」を用いられ、パッと見崩壊しそうな局面したが、私は粘り強く、相手の車をすてる攻撃に耐えました。しかし頑張りましたが、残局では負ける確率の高い局面になりました。おそらく張強大師は所属チームが既に勝っていたためか、少し急いで勝ちに行く指し方をし、逆に私にジャンで馬と兵をとられ、「馬炮単士象対馬士象全」の局面になりました。私は逆転して優勢になってから再度チャンスを探しましたが相手に隙がなかったため、この試合は8時間半にも及ぶ長時間戦の末引き分けになりました。午後の1時に始まり、夜の9時半まで指し続けた試合で、私のシャンチー人生の中で最も長い時間指した一局でした。

この試合で私にとって最も大きな意義があった出来事は、私の尊敬している許銀川先生と正式な試合で一度対局することが出来たことです。その試合は広州で行われ、私は一泊二日の列車に乗って向かいました。向かう間私はずっと学校の授業の勉強(自習)をしていました。何故だか分かりませんが向かう途中私は自分が許先生とあたるような予感を感じていました。広州までの道はとても遠く試合に参加するために一週間の期間が必要ですが、憧れの人との距離が近くなることに私はとても満たされた気持ちでいました。

試合はほぼ一方的な形勢でした。許先生は雲が流れるようなコマ運びの技巧で私の防衛線をあっと言う間に崩しました。対局後私たちは大広間の中継会場に呼ばれました。許先生の素晴らしい評注を伺い私は形勢判断上の大きな間違いを悟りました。ここまで大きなレベル感の違いを感じたのもはじめてでした。

2003年末から2004年のはじめにかけて、私は清華大学と北京大学の冬合宿のイベントに参加しました。そしてどちらの大会でも優勝しました。冬合宿のイベントの目的は、大学入試の際に大学側が棋類に優れた生徒の入試での合格基準点を下げることでした。評価項目は2種類あり、技術評価と文化科目の評価があります。技術項目は大会形式で囲碁やチェス、シャンチーから5名選ばれます。その後さらに文化項目を見て総合評定をつけます。文化の試験は教授が出題します。数学、国語、英語、文化総合、理科総合などがあり、全部で三時間の試験です。

二つの大学の活動形式は概ね同じでしたが、詳細は少し異なりました。清華大学と北京大学は国内のトップ大学です。私はすぐにどちらの学校にするか決めることは難しかったですが、入試前にこの二つの学校のどちらを希望するか選ばなければいけませんでした。私は何度も考えて北京大学の法律学科を選択しました。なぜなら私はシャンチー以外に、弁護士になる夢をもっていたためです。

学生時代【大学編】

【大学編】

2004年、大学入試が終わって一か月が経った頃、私は北京大学の合格通知書を受け取りました。この日、私はとても感動して涙が出ました。確かに私のシャンチーの職業棋士としての人生は順調ではありませんでしたが、学業では満足いく結果を納めることが出来ました。このように私は大学へ入り新しい生活が始まりました。北京大学にはシャンチー協会とシャンチーチームがありました。シャンチー協会は主に学生の中のシャンチー愛好者に向けて活動しており、シャンチーチームは学校対抗の試合のために常設されている機関でした。

毎年シャンチー協会は三角地で2、3日の新規メンバーを集めるための活動を行っていました。その中には国際留学生もいました。私は留学生との交流の中でその他の技能も身に付けました。例えばチャンギ(韓国の将棋)やチェスなどです。シャンチーチームは毎週土曜日に訓練がありました。そこにはシャンチー協会も一緒に参加していました。シャンチー協会の学生たちは常に熱心で、その熱意が冷めることはありませんでした。

北京大学での勉強は高校の時と同じようにストレスがあるものでした。大学では自由な勉強方法を選択することが出来、学生が自ら考え行動することへの要求が高かったです。当時は先輩の経験を参考にすることをせずに、授業はルームメイトと一緒に選びました。一学期では上限の25単位を選択しました。基本的に私は毎学期最大単位を選択していました。今思うと当時のやり方はあまり賢いもではなかったように思います。試合との兼ね合いの角度から考えると毎学期出来るだけ授業を少なくするべきでした。卒業のためには140単位をとれば良いので、そんなに自分を追いつめていっぱい頑張る必要はありませんでした。後で入学したシャンチーの後輩たちは、この経験から学び、延期卒業する手続き(4年で卒業せずに6年かけて卒業する制度)をしました。これは間違いなくとても賢い選択です。全ての人には使える力に限界があります。競争のストレスの大きい環境の中で、二つのことを同時にやろうとするとそのどちらも完成させることが出来ません。

確かに授業は重さがありましたが、シャンチーでは大きな収穫がありました。私は年末の全国シャンチー個人選手権の乙組みで準優勝し、はじめて甲組に入りました。これは私を大きく奮い立たせました。私は勉強に専念した後はシャンチーのレベルは下がっているものと思っていました。そのためこんなに良い成績をとることが出来るとは思っていませんでした。おそらく北京大学での生活環境が私の気持ちに大きな変化を与えていたようです。私は以前よりもリラックスして落ち着いて、試合の中で可能な限り力を発揮することが出来ました。私はこの大会に参加するために様々な方法を尽くし各科目の先生に授業を休む申請をしました。多くの先生が試合に参加することを支持して下さいました。ただ休むことで勉強がおくれるところは自分で補充するように言われました。

2005年、私ははじめて学校の代表として「京華杯」(北京大学と清華大学の友誼賽)に参加しました。棋牌チームはみんな出場します。私には本科生チームの代表としての責任があります。友誼賽ではありますが、学校のリーダーはこの大会をとても重視しており、大会前には参加選手を集めた会を開きました。試合の過程はとても激しく、これまでの大会ではどちらの成績もとても入り組んでおり、どちらにも勝つ可能性と負ける可能性がありました。「京華杯」のトロフィーは毎年勝った学校に置かれます(1つのトロフィーをずっと使い続けます)。このトロフィーは学校にとって非常に大きな栄誉でした。この大会での私の対局相手は崔航さんでした。隊長の呉優さんの紹介では崔航さんの実力は大師レベルで、とても力のある選手とのことでした。私はそれを聞き、相手を重視し試合にとりかかりました。

午前中の対局で私は先手の利を利用し、穏やかに指し進め、順調に一局目を勝つことが出来ました。午後の対局では崔航さんは策略を変更し、私の指し手を伺いながら指して行き、局面は平穏になり引き分けを提案しました。私は当時もう少し指したかったので提案に応じずに指しましたが、お互いに持ち時間がなくなって来ました。なぜなら持ち時間のルールは加算のない対局で、チェスクロックの時間が切れれば、局面がまだ勝敗にたどり着いていなくても試合は終わってしまいます。最終的に持ち時間の差が少ない状況で、私の時計の旗が先に落ちてしまい、時間切れで負けてしまいました。こうして私のはじめての「京華杯」の旅は幕を閉じました。最終的に北京大学は総ポイントで勝ちました。

あっと言う間に大学2年の前期になりました。大学一年の時よりも授業は忙しくなりました。専門の授業も増え、勉強の難易度もどんどん大きくなりました。この一年の私のシャンチーの試合成績は理想的ではありませんでした。おそらく理由は精力不足です。私は全国シャンチー個人戦で残念なことに乙組みに落ちてしまいました。この年はいくつかのオープン大会でちょっとした成績をとっただけでした。ただ私のシャンチーの専業棋士への扉は閉ざされていませんでした。四川棋院の院長の蒋全勝先生が私の可能性を見出し、私に二度目の全国甲級リーグへの参加のチャンスを下さいました。

私は夏休みの間のみ甲級リーグの試合に数局出場しました。このような鍛錬機会はとても貴重です。また私はこの時台湾の棋王の呉貴臨先生と知り合いました。呉先生はとても陽気でユーモアのある性格でした。私たちは普段寮に住んでいましたが、訓練や食事会の時には外出しました。呉先生は魚料理が好きでした。そして普段時間がある時は奥さんに電話をしていました。先生はとても模範的な紳士でした。ともに過ごした時間はとても短かったですが、呉先生の賢さと話すのが好きだったことを良く覚えています。シャンチーのレベルや地域に限らない、真の「以棋会友」です。

2006年、私は2度目の「京華杯」に北京大学の代表として出場しました。1回目に参加した時よりは緊張しておらず、私は自分の力を発揮することが出来、2局とも順調に勝つことが出来ました。ちょうど全国団体戦と時期がかぶっていたため、「京華杯」の試合が終わってからすぐに私は空港に行き済南に向かいました。そのため「京華杯」の閉会式に出ることは出来ませんでした。

大学2年の二学期は少しずつ勉強のリズムに慣れてきました。時間がある時はインターネットで棋譜をみたり対局したりして棋芸の研究をしました。この一年、私は全国体育大会のシャンチー専業組みに2度目の参加をし、個人8位、団体4位の好成績をとりました。最も大きな収穫は尊敬している許銀川選手との2度目の正式な試合での対局でした。この時は私の棋譜の内容は前回よりも良く、開局ではやはり不利でしたが、中局では大規模な(コマの多い)戦いを繰り広げることが出来ました。この大会では憧れの許銀川選手との対局で、注意深く指し過ぎて自分らしい手が出せないことはありませんでした。私は積極的に指すことが出来、局勢は一度私の満足できる方向へ発展して行きました。それでも許先生は心身ともに大きく揺れ動くことはなく、一手ごとに機会がないか探していました。とても入念に、精密に局面を見ていました。トップ棋士の強さは彼らが毎歩指す毎に最も優れた手を指すか、それなりに正しい手を指し、間違った手を指すことがない点にあります。多くの棋士は妙手を出すことがあっても、トップ棋士のような質の高い手を指し続けることは出来ません。

私はすでに危険な局面を逃れたと思っていましたが、許先生は妙手で盤上の私の棋型の弱点を正確に攻撃してきます。混乱した中、私は最も良い防衛方法を探し出すことが出来ず、コマ損をして負けてしまいました。また憧れの選手に負けてしまいましたが、私は落ち込むことはありませんでした。棋芸の理解の上でも棋芸の境界の高さにおいても、私はこの対局から大きな収穫を得ました。

(北京大学の代表として京華杯に出た時の写真)

2007年、私ははじめて浮き沈みの激しい時期を経験しました。「京華杯」の試合で私は去年に引き続き2勝の成績をとりました。そして、全国団体戦で火車頭シャンチーチームの1台で個人成績5勝4和を保持し敗局はありませんでした。「最も優れた1台」と言う賞を受賞し、団体も2位で、甲級に上がりました。しかし、順風満帆かと思ったその時、個人選手権で叩きのめされることになりました。

個人選手権の小グループでのはじめの数局では正常に力を発揮することが出来ました。最後の一ラウンドでは後手で引き分けすることが出来れば、予選を通過することが出来ました。私の相手は上海の宇兵大師でした。この一局で私は損得ばかりを気にしていました。対局前に考えた策略としては引き分けで良いと思っていました。しかし、対局の過程が思ったよりも順調で、私は黒でしたが開局の段階で先手を得ました。本来起こるべきではないのに、私の気持ちが揺れ動きました。私の心には勝ちたいと言う思いが芽生え、着法が穏健ではなくなりました。これにより相手の懐に落ちてしまいました。宇兵大師はとても気持ち的にリラックスしており、落ち着いて指し続け、私の軟手から機会をつかみ兵の1つ多い優勢をつかみました。この時私が冷静になることが出来れば、引き分けをとることはそんなに難しいことではありませんでした。しかし当時、すでに私の足並みは乱れ、連続していくつかのミスをしてしまい、局面は更に悪化してしまいました。

宇大師はゆったりと少しずつ優勢を広げ、最終的に勝利しました。そしてこの大会で宇大師は長年の目標であった大師のタイトルを獲得しました。この一試合は私を大きく打ちのめしました。私は耐えきれず悔し涙を流しました。これは私がはじめて試合会場で流した涙でした。あまりに悔し過ぎたのか、それともあまりにもふがいなく感じたのか、理由は自分でもよく覚えていませんが、ただ耐えようもない心の痛みがあったことは覚えています。私は自分自信に「ここで転んだのだから、ここで立ち上がろう(諦めることなくシャンチーを続けよう)」と密かに誓いました。

2008年、私は大学四年生になりました。当時私は大学院を受験することは考えませんでした。なぜならシャンチーの個人選手権で刺激を受け、私はシャンチーを続けて行きたいと思っていたためです。本科生の最後の一年は、私は卒業単位を早くにとり終わり、後は卒業論文と口頭試問のみを残した状況でした。この時火車頭シャンチーチームは資金の関係で全国シャンチー甲級リーグへの参加資格を放棄していました。私がちょうど躊躇している時に、四川棋院の院長であった蒋全勝先生が私にチャンスを下さり、私を甲級リーグの最終席に入れて下さいました。

2008年、この年は私にとってシャンチー人生の中で最も特別な一年でした。私は卒業論文を書き終え、口頭試問も終え、全身全霊をかけてシャンチーに取り組みました。四川チームの訓練の日には、専業棋士の楽しさを感じることが出来ました。これは学生時代には想像出来なかったことです。とても良い訓練環境で、私は新鮮な養分を得ることが出来ました。このような環境から私は多くの良い結果を得ることが出来る予感がしました。

甲級リーグが始まった後、私の状態はあまり良くありませんでした。はじめの2ラウンドは呂欽先生と金松大師に負けました。第3ラウンドで調整し、経験と教訓の総括をしました。そして4ラウンドで趙国栄先生と引き分けをし、調子を取り戻しはじめました。5ラウンドは特級大師の洪智さんとあたりました。洪智さんは「乱戦天王」と呼ばれる素質があり、攻殺に秀でた方です。複雑な局面の中で戦闘チャンスを伺うとても怖い選手です。この一局では洪智さんは開局から戦火を放ち、後手であっても甘んずることがなく勝ちにこだわっていました。これに対しては私も早くから心の準備をしており、積極的にコマを動かし迎え撃ちました。中局の段階で私は兵棄ての妙手を指し、洪智さんの想像を大きく超える手を指すことが出来ました。

ところが劣勢な局面を指していても洪智選手は冷静沈着で、損害は最小限まで解消されました。残局の段階で私は最も精確な着法を指すことが出来ず、もう少しで引き分けにさせられるところでしたが、60歩自動限着の手前で絶殺にし、勝利の果実を守ることが出来ました。この試合は私に自信をくれ、その後の試合での調子が良くなる基礎となりました。

第一段階の試合終了後、私は全国シャンチーレイティング賽に迎え入れられました。全国各地から300人余りの人が参加し競争の激しい大会でした。試合の規定では、優勝し、さらに勝率77%以上の人は大師の称号を得ることが出来るものとなっていました。2000年の基準と同じような厳しさでした。前回から8年が過ぎましたが、私はこの機会をつかむこと出来るのでしょうか。この時、一つの信念が私を後押ししてくれました。あの頃、母は乳腺がんにかかり疲れていましたが、私は側で親孝行することが出来ずに罪悪感を持っていました。今回の大会は仮に一万分の一の可能性であったとしても私は全力でやりきらなければいけないと感じていました。

試合の前半5ラウンドで私は4勝1和の成績で良い出だしでした。第6ラウンドで私は河北省の王瑞祥大師とあたりました。彼はその前のラウンドまで5連勝で状態はとても良かったです。試合は全部で13ラウンドあり、まだまだ長い大会です。お互いに引き分けになり、その後の対局で私たちは上位のポイントを争い合いました。その過程の中で私は武俊強大師や程鳴大師、陳幸琳大師、黎德志大師、周小平大師など、多くのトップ選手とあたりました。彼らは当時まだ大師のタイトルを持っていませんでしたがすでに大師のレベルを持っており強く、これらの対局はどれもとても難しい対局でした。対局相手や家族からの圧力と、長年に渡る自分自身の信念が全て動力に変わって、私は力を発揮することが出来ました。私にとって学生最後の一年でした。私は素晴らしい成績を手にするために前に進まなければいけないと思いました。

試合の11ラウンドの時点で、私と王瑞祥選手は同じポイントでした。大会は後2ラウンドあり、私たちはお互いに最後の力を発揮するのみでした。第12ラウンドで王瑞祥選手は後手で河南省の李暁輝大師、私は後手で河南省の譚才文選手とあたりました。私たちの対局の形勢はどちらも勝つことが難しい局面でした。前半の苦しい戦いでみんな体力と精力を消耗し尽くしていましたが、優勝するためには実力以上の力を発揮し、さらに運も味方してくれる必要がありました。膠着した局面の中、王大師が相手に和を提議し、先に局面を終結させました。私はこの対局に勝つことが出来れば王瑞祥選手よりも上に行ける、大きなチャンスであることを知っていました。そのため私は総攻撃をしましたが、相手も簡単な相手ではなく、何度も局面が行ったり来たりしながら、ついに私は卒が一つ多い優勢を手にしました。その時にはお互いに持ち時間が数秒になり、一手加算の時間だけで指す状態になり、私はその中で最後まで努力し続けました。

頑張れば叶うようで、慌てて指している中で相手にミスが出て私は相手の士を一つとることが出来ました。相手が悔やんでいた時、チェスクロックが突然なり、時間が切れました。この時私は肩の荷が下りたようにほっとしました。最後の1ラウンドを前に私はついに王瑞祥選手に1ポイントリードすることが出来ました。

第13ラウンドでは王瑞祥選手は先手で北京の孫博大師、私は先手で湖北の曽洪涛選手とあたりました。夢がもう少しで現実になりそうです。しかし私は冷静な状態を維持しなければなりません。もしもこの対局に負ければこれまでの全ての努力が水の泡になります。私は穏健に指し進め、布局の段階で主導権を握ることが出来ました。中局では策略的に馬をとることが出来、優勢はさらに拡大しました。この時、王瑞祥選手の対局は引き分けになり、私は引き分けをとれば優勝することが出来る状態になりました。私が少しずつ指し進めていた時対局相手から引き分けの提案があり、私には悩ましい状況になりました。ただ局面の状態には大きな差があったので、スポーツマン精神にのっとり指し続け、最終的に私は対局に勝ちました。対局後相手はとても不満そうでした。相手はこの一局に中国個人選手権の乙組みの参加資格を得ることが出来るかどうかがかかっていました。そのため私の言動に人情がないと言いました。

試合の真の意義は公正な競技の中にあります。人の感情の角度から見れば私は頑固で融通のきかない人なのかもしれません。私もこのことは真剣に考えたことがあります。しかし、もしも当時私が妥協していたら他の人がもらえるべき乙級への枠をもらえなくなってしまします。これはその人にとってやはり不公平です。何年経っても、私は当時の選択が正しかったのか間違っていたのか分かりません。

13ラウンド後、私の総成績は9勝4和で勝率88%を達成し、シャンチー大師のタイトルを取ることが出来ました。優勝の表彰台に上り、ついに長年の宿願を叶え、学生時代に美しいピリオドを打つことが出来ました。

(2008年全国個人選手権(左)と全国シャンチーレイティング賽で優勝した時の写真)

専業棋士としての人生

3、専業棋士になろうと思ったきかっけと、専業棋士としての生活で苦労したことや楽しかったこと等についてお聞かせ下さい。

全国シャンチーレイティング賽で優勝して以降、私の中で職業棋士になろうと言う気持ちが芽生え始めました。大学四年生には多くの選択肢があります。当時家族は私が公安部に入ることを望んでいました。なぜなら両親共に公安部研究所で仕事をしていたためです。しかし私は公務員関連の仕事にそんなに興味がありませんでした。形式上公務員試験を受けましたが何の準備もしておらず、結果も予想内の不合格でした。卒業後一部の同級生は司法試験を受け法律関係の仕事に着き、また一部の同級生は国家に雇われる仕事に就き、そしてまた一部の少数の人は私のように自分の好きなことをする道を選びました。

当時私の心はとても矛盾していました。私は他の同級生と同じように面接や筆記試験を体験し就職のための過程を過ごしたいと思っていました。しかしそのような経験をすることは出来ず、それはとても残念なことでした。しかしシャンチーが私に与えた影響は大きく、シャンチー大師のタイトルをとった後、もっと高い目標に進み、子供の頃からの夢を実現させたいと思いました。ちょうどこのように私の心が揺れている時、全国シャンチー個人選手権で私は上位8位に入ることが出来、自分を信じる力を得ることが出来ました。もしも大優勢の局面で呂欽先生に逆転負けをしていなければ、決勝トーナメントではもっと上のランクに入ることが出来ました。この大会で私は専業棋士になる決心をし、ここが私の職業棋士としての起点になりました。

(2008年全国個人選手権での呂欽先生との対局)

シャンチーのプロと言う職業は簡単なものではありません。毎日の仕事形式は単一で、主要な仕事はシャンチー分析ソフトで変化を調べることと各チームの選手の棋譜を調べることです。はじめの一か月はとても新鮮な感じがしますが、更に時間が過ぎると一種の退屈な感情を持ちます。このような感情は繰り返される嫌悪感から来るものです。

シャンチーの変化はとても多いものです。しかし棋士たちの認めた定跡は有限です。これは入門したての頃とは大きく異なります。シャンチーを始めたばかりの段階からレベルの高いプレーヤになるまでの段階の成長周期は、とても快適でとても達成感のあるものです。しかし一定の程度を過ぎると進歩の速度は無限に遅くなり、本当に難しい期間になります。基本的には省や市レベルの上位クラスのレベルになるとこのような悩みにぶつかります。

シャンチーのソフトの開発が進む前、多くの答えが未知の状態でした。あの頃のシャンチーの新鮮感は今よりももっと強いものでした。シャンチーソフトの発展によりシャンチーの技術は大幅に高まりましたが多くの選手の創造性(オリジナリティ)を制限しました。シャンチーのソフトの発展は新しい選手にとっては成長速度を速めるために有利ですが、すでに完成された力を持つベテラン選手への助けは大きなものではありません。

私からしてみると、ソフトの発展は有益なものよりも害の部分の方が大きかったです。私は新しいものを新創することが好きなタイプの棋士です。シャンチーソフトの多くは良い変化を導き、それを記憶して行くことが勉強の過程になります。私のように記憶力の良くない人にとって、伸びる幅は大きくありません。そのため日常の訓練は私にとって苦しいものの一つでした。シャンチーのソフトが開発されて以降、選手同士の交流も減りました。みんなが「ソフト先生」を信じ、答えを出します。そしてパソコンを使って分析して行くことが模範的な勉強スタイルになりました。

この退屈な時間が何年も続きましたが、私はこれらのパソコンを用いる訓練を放棄することは出来ませんでした。なぜならみんなの訓練スタイルは基本的に同じで、ほんの少し細かい箇所が異なるだけでした。もしもシャンチーソフトを訓練の補助に取り入れなければ、すぐにまわりについて行けなくなり直接失敗に結びつきます。もしも試合で対局相手が家でソフトを使って準備した変化が自分の知らない変化であった場合、局面はすぐに崩れてしまい、どんなに頑張っても逆転する機会はありません。そのためシャンチーのソフトは絶対多数の選手に受け入れられました。これは孤独と寂しさを伴うもので、これらの思いを誰かと共有することも難しいものです。

またもう一つの苦しかったことがあります。それは途切れることなく挫折感を感じていたことです。試合には勝ち負けがあります。古語には「勝つことは喜ばしいが、負けることにも喜びがある(負けても学びがあり、それは喜びにつながると言うこと)」と言う言葉がありますが、これはただ自分を慰める言葉です。多くの選手にとって試合での失敗の結果は我慢出来ないことで、私も例外ではありませんでした。しかし私はこう言った競技の感覚が好きです。これは刺激的で本物の感覚です。若い頃は気にせずにその感覚に浸ることが出来、これらの感覚は言葉では言い表せないほどの快感がありました。

(2009年蔡倫竹海杯象棋大師精英賽での写真)

私は、一人の戦士として戦場での何千何万という長い死闘を繰り広げ、そのうちに試合会場での勝敗は淡泊なものになりました。そして当初感じていた辛さも思い出の中の甘酸っぱい記憶になりました。私は自分の職業棋士としての生涯に後悔はありません。確かに色鮮やかなものではありませんでしたが素晴らしいものでした。楽しい思いをし、苦しさも味わい、努力もしました。もしも私がもう一度人生を選べるのだとしても、私は再度同じ人生の軌跡を選択し、喜びを感じ、悲しくつらい経験をし、汗と涙を流すのだと思います。このようなシャンチーの情縁こそ専業棋士としての私の最も楽しい思い出です。


○これまでに獲得したトロフィー


(左:甲級リーグでの柳大華先生との対局/右:2009年蔡倫竹海杯象棋大師精英賽での洪智選手との対局)

専業棋士同士の交流について

4、専業棋士同士の交流についてお聞かせ下さい。(仲の良い方や尊敬する方、またその人とのエピソード等)

ここ数年、私は多くのシャンチーチームから甲級リーグに参加しているため、沢山のチームメンバーと交流があります。しかし、かかわる時間が短いため深い交流を持つ機会はありません。大部分の選手は性格が比較的内向的で、長期的に競争し合っている関係のため安定した友好関係を築くことは難しいです。ただ私の職業棋士の経歴の中ではとても気の合う友人がいます。例えば李少庚大師です。2008年に四川チームで訓練をしていた時、私たちはルームメイトでした。私たちは一緒に食事をとり、棋芸を研究し、映画やテレビも一緒に見て、常に二人で過ごしていました。当時流行っていたテレビドラマに《大唐双龍伝》と言うものがありました。男性の主人公の寇仲さんと徐子陵さんの二人を“仲少”と“陵少”とみんな呼んでおり、私たちはその番組を一緒に見ていました。

その後私は彼を“庚少”と呼び彼は私を“才少”と呼び合うようになりました。今思うととても面白いです。私たちは個人的にとても良い関係であっても試合では全力で取り組みます。俗に言う「戦地に親子はない」と言うものです。そうであるならば兄弟も同じです。少なくとも私は試合の時に手を抜くことはないですし、彼も同じです。これもシャンチーと言う競技が尊重しなければいけないことです。

尊敬している選手は沢山います。例えば小さい頃から見てきた有名な方々です。私は彼らの棋譜を見て育ってきました。もしも誰か特定の人をあげるならば胡栄華先生と許銀川先生です。胡栄華先生を尊敬する理由は、シャンチーのソフトのない時代に自らの智慧で多くの布局体系を作ったことです。しかも胡先生によってつくられた多くの棋譜は時間がたった今も正しいものです。ソフトが広がっている現代でも、多くの主流布局の源はやはり「胡式布局」が根幹とされており、それは非常に偉大で成し遂げることが難しいことです。胡先生はシャンチーの布局の領域で消えることのない偉大な功績を残す貢献をし、シャンチーの発展に残る濃く鮮やかな線を残しました。

その他では胡先生の記憶力はとくに素晴らしいものです。私は一度同じテーブルで食事をしたことがあり、その時に先生の記憶力の良さを感じました。先生は昔経験した多くのことをよく覚えていました。多くの場合あまり目立たないことは若者であってもあまり良く覚えていません。しかし胡先生は古い出来事でもすぐに思い出すことが出来ます。77歳の高齢であってもシャンチーの泰斗であり、先生の智力の高さに多くの人が尊敬しています。

許銀川先生について

多くの人が知っていますが、許先生は私の憧れの選手です。早い段階から私はブログで「私の目に映る許銀川先生」と言う長い文章をあげていました。許先生は私よりも9歳年上です。一世代上の選手の方にとって私の年齢は最も近く、許先生は中山大学の中文学部を卒業した優秀な方です。私の目に映る許先生はシャンチーの総合的な素質が最も高い選手です。許先生はとても謙虚で自分に厳しく、多くのシャンチーファンから「許仙」と褒め称えられています。まさに最近の流行語の「完美人設(完璧な人を表す)」です。私が許先生にはじめてお会いしたのは1998年のことです。当時私は大師賽の棋譜を記録する手伝いをしていました。休憩の時、部屋を間違えて眠ってしまいました。許先生はシャンチー講義の招待客でした。先生は飛行機の遅延で遅れて到着しました。そしてホテルに着いた際に私が先生のベッドで眠っていることを発見しました。確かにその場面はとても残念なものでしたが、先生は私を咎めることなく、私と少しお話をして下さいました。先生は私の出会ったシャンチーの先輩の中で一番優しい先輩でした。

その後試合でも何度か対局し、試合後には毎回許先生と復盤交流をしました。先生は自分の知っていることを隠すことなく教えて下さいました。私と許先生は師であり友である関係と言えます。実際のところ私と先生は師弟と言う関係ではありませんが、先生は私に多くの道理を教えて下さいました。先生が教えてくれた道理の中にはシャンチーのみではなく人としての道理もあります。そのため私にとって先生は心から尊敬する人です。私は試合の空き時間などにいつも先生とご飯を食べたり散歩に行ったりし、ともに多くの話をしました。そしてまた時々一緒にジムに走りに行ったりもしました。

現在、許先生のシャンチーのキャリアの比重はかわり、創業(事業)がメインで試合は二番目になりました。しかし先生の成績は依然として上位を保持しています。時代が過ぎ、新しい選手に交代する時がきたとしても先生の偉大さは永遠に失われることはなく、全てのシャンチーファンにとって先生は唯一の「許仙」であり続けます。

(2017年甲級リーグでの許銀川との対局)

忘れられない一局

5、忘れられない一局についてお聞かせ下さい。

この質問の回答はとても難しいです。私の職業棋士としての生涯の中で忘れられない試合は多くあります。棋譜を忘れることが出来ない理由はその大会に意味があるためだからだと思います。目を閉じて考えて見ると、私の頭の中にはいくつかの素晴らしい試合が浮かびます。一つは2008年の“道泉茶葉杯”全国シャンチー明星杯の私と呂欽先生との対局です。私は黒でした。

あの試合は“310”賽制で勝つと3ポイント引き分けは1ポイントでした。そのため試合は双方相手を倒すことを考え激しい攻撃が繰り広げられました。呂欽先生との対局では私が先にコマをすてて攻撃し、呂欽先生も甘く弱い手を指すようなことはなくコマをすてて攻撃しました。その後混戦の中で私は再度コマ得し先に勝利にたどり着きました。

その他では2009年全国シャンチー甲級リーグで、私と王天一大師の一局もとてもよい試合内容でした。この一局で私は紅でした。中局で王大師はとても激しい攻撃をしてきました。当時王大師はまだ全国チャンピョンになっていませんでしたが、実力は強い大師のレベルがありました。当時のお互いの状態から見るとレベルも近かったです。あの一局が素晴らしかった理由は中局でお互いに譲ることなく指し続けたことです。王大師は先に二度車をすてて攻殺攻撃をしてきました。そして私も車をすてる罠の攻殺攻撃をし、盤上に広げられた戦場から煙が消えることはありませんでした。局勢の優劣を判断するのが難しい場面もありました。最終的には引き分けになりましたが、棋譜の内容を見ると、勝ち負けのある多くの試合の棋譜よりも美しいです。あの一局は現在のレベルから見ても素晴らしい一局だったと思います。

最も忘れがたい対局は2014年の全国シャンチー甲級リーグでの王天一特級大師との一局です。あの一局は2009年の対局に棋譜の素晴らしさは劣りますが、お互いのレベルが成熟した中での一局なため総合性が強く全面的な棋譜の価値があります。またこの対局は団体戦の一局なので、試合前の策略もとても重要です。相手チームは王天一選手や洪智選手等のいる内モンゴル伊泰チームで、私が所属している広西跨世紀チームを完全に上回るチームでした。チームとして試合に勝つことはとても難しいことでした。私はこの一局は先手でした。そのため相手がレイティング1位の王天一選手であっても保守的に指すことは許されません。

布局段階で私はこれまでの対局の中で指されたことのない新しい変化を指しました。王特級大師はとても訓練された選手です。王選手は私の準備の範囲内に入ることをさけ、迅速に大きなコマを私の陣地に運びました。向かい合っている時、気迫に満ちた勢いで、私の心は揺れ動いていました。対局で私は中炮の攻撃で規制をかけ相手の担子炮の防御を壊しました。王特級大師は防衛のためにコマを戻さなければならなくなりました。コマを運ぶ戦術の中で私は優勢を得ましたが、潜在的な危険を伴う局面でした。

重要な選択をする分岐点で私は他の3台のチームメンバーの対局状況を確認しました。私をとても喜ばせたのはチームメンバーが素晴らしい力の発揮をしていたことです。チームメンバーは皆相手からの攻勢に耐え、戦いは引き分けになっていました。私は心の中で計算しました。もしも私が和だった場合チームも引き分けになります。私たちのチームが強いメンバーのチームから引き分けポイントを得ることが出来ることはとても満足でした。そのため私は平穏な変化を選択し大きなコマを交換する展開にし、局面は平穏に進みました。私が、一局がそろそろ終わりかけてきたと感じた時、相手の戦闘意識が急に高まりました。概ね引き分けの決まった状況から、相手は再度私ともつれ合う局面を展開し始めました。相手がこのように動き始めたことは私にとって意外でした。戦いは残局へ入り、私は双馬双兵士相全、相手は馬炮双卒単缺象で兵卒はお互いに向き合う位置にありました。理論上どちらかが勝つことは無理な局面でしたが、団体チームの勝利のために相手は諦めることの出来ない状況でした。この情景に私の精神は奮え立ち、命懸けの戦いの準備をしました。この戦いは私個人の勝敗のみではなく、チームの利益に関わりがあります。チームメンバーは難しい中、簡単ではない和を3台で獲得しました。私がみんなの努力を水の泡にすることは出来ません。団体意識を支えとし、私はこれまでにない力を手にしました。あの瞬間、私は恐れることなく戦う気持ちを手にしました。決戦の時がきたのでした。

双馬兵双士対馬炮卒双士、お互いに防御することのない攻撃が始まりました。重要な場面で王特級大師は展開の選択を間違えました。王特級大師は私が馬をすてて士をとる厳しい手段があることを見落としました。私は心の中で喜びました。勝利の天秤は私の方へ傾きはじめました。対局は白熱化する段階に入り、双方1分ぐらいの持ち時間を徘徊していました。このような持ち時間を1時間以上指し続けました。王特級大師の勝利への欲望は非常に強く、一人の勇士のようでした。私はとても敬服しました。ほんの一瞬のことでした。私が双馬で龍の遊ぶ姿のような攻撃を仕掛けた手によって、相手は炮を守りに引かなければいけなくなりました。

それぞれが生死を進む状況の中、局勢はすでにお互いに切迫した状態でした。私は馬躍檀溪*の着法で勝利にたどり着き、ジャンの機会を利用して黒の炮をとりました。そして王選手の主力のコマは捕らえられ勢いを失い、投了する局面になりました。この対局は5時間半以上の戦いでした。午後1時に始まった試合は午後の6時半になりやっと幕を閉じたのです。私の勝利によって団体は5対3で内モンゴルの強豪チームに勝ちました。これは大きな番狂わせでした。

試合後、私の服は汗でとても濡れていました。王特級大師も顔が赤くなっていました。その後も王特級大師は引き続き復盤をしました。しかし私は試合時間がとても長く、トイレが我慢できないため、謝罪をし、すぐにトイレに向かいました。私は走りながら感慨に浸っていました。あれだけ長い試合後にも復盤を出来る王特級大師のことを考え、若い人の体力は本当に素晴らしいなと感じていました。もう一時間長引いていたら私は指しきれなかったかもしれません。

(2014年甲級リーグでの王天一特級大師との対局)

王さんとの棋譜は後日ブログ記事でも紹介しようと思います!

お楽しみに!

(* 馬躍檀溪も後日棋譜紹介と一緒に説明します)

才さんにとってのシャンチーとその魅力

6、才大師にとってシャンチーとはどのようなものですか、また才さんの考えるシャンチーの魅力をお聞かせ下さい。

シャンチーは私にとって友達であり、私自身を理解してくれるものであり、自分の見方でもあります。子供の頃から私とともに成長してきました。私に勝った時の喜びや失敗した時の辛さ、表彰されることの栄光、研究の楽しさをくれます。

大人になった後も私とシャンチーはお互いに寄り添い合っています。シャンチーは私を一人の特別な人にしてくれました。シャンチーは私を平凡な者でいさせずに、羨望のまなざしを向けられる存在にしてくれました。

シャンチーは私の人生を変えました。その道が苦しいものであり、結果が喜びであっても悲しみであっても、私は後悔しません。

シャンチーの魅力は入門することが簡単で、短い時間でも指すことの出来る点にあると思います。シャンチーの基礎は多くの人の中にあります。ほとんどの公園や町の中で、友人同士で対局している姿を見かけます。多くの人がずっとシャンチーの魅力に取りつかれていますが、彼らはトップのレベルをつかもうと言うような偉大な大志をもっているわけではなく、数局の失敗でシャンチーの熱が冷めることもありません。多くの人にとってシャンチーは生涯の相棒のようにそばにあります。シャンチーはすでに多くの人の身体に記憶され、このような感情は骨の髄まで深く入って離れません。

シャンチーの魅力はすでにひと言で簡単に表すことの出来ないものになっています。シャンチーが伝承するものは文化であり、信仰であり、情感であり、託されるものです。これらの全てのものとシャンチーとかかわる全ての人にはみな自分の物語があります。そこには共通するものがあり、そしてまた異なる素晴らしさがあります。最も重要なことは、シャンチーが私たちの生命の中で真実の存在であり、私たちもシャンチーにとって欠かせないものだと言うことです。私たちはお互いに頼り合い、互いに連れ添い合っているのです。

おわりに

7、日本のシャンチーファンにひと言お願いします!

日本のシャンチーファンのみなさん、こんにちは!私は中村さんのインタビューを受けることが出来、とても嬉しく思います。このインタビューで微力ながら私の力でシャンチーの魅力を世界に広めることが出来れば嬉しいです。

シャンチースポーツは自分が望めば地域やレベル、年齢、性別を越え友達になることが出来ます。こう言ったシャンチーの魅力に多くの人は惹きつけられます。

私は、みなさんが自分のシャンチーの物語を見つけることを祈っています。


(甲級リーグでの写真)

みなさん、最後まで読んで頂きありがとうございます!

トークリレーで次にバトンが送られる方は誰でしょう!!^^

皆さん次回のインタビューもお楽しみに♪

コメント

タイトルとURLをコピーしました